近代日本の身装文化(参考ノート)
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4. 素材と装い 401 和服地一般 開国当時、衣服の素材にとっての黒船は毛織物だった。築地、そして横浜の外国人商館がもちこむ商品は多彩だったが、なかでも各種の毛織物は重要な輸入品目で、数量も多かった。欧米に則った官制をつくり、行政官や軍人、そして警察官や、鉄道、郵便職員のすべてを欧米風の官服で装わなければならない。それには大量のラシャ(羅紗)が必要だ。かなり後々まで、洋装反対の論拠のひとつはラシャの輸入によって莫大な金銀が国外に流出する、という怖れだった。そのために日本国内でも千葉県などで牧羊が試みられたりした。ラシャ以外で、日本人に早い… 4. 素材と装い 402 きものの柄 和服の柄のなかでもっとも特色のあるのは友禅柄かもしれない。ここで特色というのは、美しいとか、誇るにたる、という意味でではない。博覧会の二号館を子供と一緒にある日見て歩いた。(……)織物の方では色々の贅沢な模様ものが封建時代の花見衣のように掛連ねてあるのを見た。ぼくはこの模様ものの衣裳が大嫌いだ。縮緬などの薄っぺらな織物は模様でもなければ引き立たないのだろうが、それにしても肩まで模様の散らかったものを陳列なら兎も角大道を着て歩くのは低能に近い。現代の衣裳の趣味は、以前の東京人の渋い趣味などから見ると、未開… 4. 素材と装い 403 木綿地 木綿は古くからあったもののように思われがちだが、栽培が全国にひろがったのは江戸時代もおわりのころで、それでも山間地などでは明治になっても、手にいれるのがむずかしく、非常に貴重なものにされている地域が残っていた。綿花の栽培は全国的だったが、ほんらい暖地の植物であるため、良質の木綿は西日本で生産されている。薩摩木綿、長崎木綿、河内木綿、松阪木綿、三河木綿など、地名のついた木綿織物がよく知られていて、たいていはそれぞれ特色のある縞織物をもっていた。幕末に書かれた『守貞謾稿』には、「今世河州(=河内)を第一とし… 4. 素材と装い 404 縮緬/御召/銘仙 この時代、和服の地質中もっとも好まれ、また高価だったのは、女ものでは各種の御召だった。模様物を除いて最も世に広く用いられているのは御召縮緬(おめしちりめん)である、之は寧ろ流行と言うよりも、廃らぬと言った方が至当である、何故に御召が廃らぬかと言えば之に超す品がないからである。(近藤焦雨「最新流行の織物」【文芸倶楽部】1907/3月)婦人ものの中で、上等品といえば、やはりお召類を推さねばなりません。現今の機業界は全くの所、お召し以上の品を織り出すことが出来ないので、ただそのお召しの織り様を、時機に適して種… 4. 素材と装い 405 大島紬 真綿、つまり絹綿から指先で揉んで糸を撚りだし、その糸で織った絹布が紬(つむぎ)だ。この方法は羊毛から糸をつむぐ方法とおなじ。ふつうの絹糸は繭をお湯のなかに入れ、一本の糸を端からひきだす。紬糸の生産量が多くないうえ、最終段階まで手作業の部分が多いため高価なものにならざるをえない。奄美大島のようにもともと養蚕地でない土地の場合、ほかから原糸を買い入れる場合もあるが、中間の作業はむかしと変わらない手仕事だから、生産量はやはり多くなく、高価であることに変わりはない。大島紬や結城紬が着尺としてすぐれている点は多々… 4. 素材と装い 406 縞/小紋 近代和服の文様は、江戸時代から受けついだ大きな遺産へのコンプレックスに支配された。江戸時代の人々が、仄暗い座敷での起ち居から育んだのは、微視的で皮肉な小紋と、際限のない変化を愛する趣味ゆたかな縞物だった。小紋のなかでももっとも小紋的な霰(あられ)小紋は、武士たちの正装の裃に用いられた。縞物はあそび心のある派手やかさも、地味なもの堅さももちうる柄だ。大柄の弁慶縞のどてらや半纏は、男女ともに愛用していた下町趣味。日本各地から地染めの太物(木綿織物)として織りだされる中くらいの太さの竪縞は、お店(たな)者の仕… 4. 素材と装い 407 羅紗/モスリン 毛織物はオランダ人の手によって、江戸時代を通じて輸入はされていた。ただしその量はわずかであり、一部のひとが特殊な衣料や持物に使っていただけで、その代表的なものがラシャとゴロフクレンだった。羅紗はポルトガル語の“raxa”が語源とされ、厚地で、織目が見えないくらい縮絨、起毛加工がほどこされたもの、という説明が信頼できる辞書類で共通している。新政府樹立後の日本がまず必要とした繊維素材は、軍人、警察官、そして政府の役人たちの制服として用意しなければならない羅紗だった。じつは日本の気候では、政府がなにかと手本と… 4. 素材と装い 408 ネル/セル 袷の袖や裾が何となく重くなった、と云って紺飛白の単物は未だ目に立ちすぎると云うような頃には、どうしてもネルかセルの一枚は欲しくなります。(【婦人之友】1912/5月〉フランネル、略してネルは薄地の毛織物。表面を起毛し、毛羽立っているので肌触りの柔らかいのが特色。冬のパジャマや各種のアンダーウエア、シーツなどにひろく愛用されている。ただし現代では素材はほとんど木綿の、いわゆる綿ネルになっているので、毛織の本ネルの肌触りを知っている人は少ないかもしれない。男性のアンダーウエアとして、ネルよりやや高価な素材と… 4. 素材と装い 409 皮革/毛皮 維新後の毛皮使用の歴史はまず海獺(猟虎)からはじまる。1886(明治19)年までの3年間にわたって発表された坪内逍遙作『当世書生気質』(第1回)中に、つぎのようなくだりがある。(まず素人の鑑定では、代言人かと思われたり。)ときならぬ白チリの襟巻に、猟虎の帽子、黒七子の紋附羽織は、少々柔弱(にや)けすぎた粧服(こしらえ)なり。(坪内逍遙『当世書生気質』 ~1886)らっこは川獺(かわうそ)の一種でかつては北海道周辺の沿岸にたくさん生息していた。らっこという名はアイヌ語系で外来語ではないからカナで書く必要は… 4. 素材と装い 410 人絹/スフ 戦前に実用化していたいた合成繊維は、天然の繊維素(セルロース)をいったん溶液とし、それをふたたび糸としてひきだす、半合成繊維とか、再生繊維といわれるものだった。1930年代(昭和5年~)には、絹に代わって長繊再生繊維が市場にひろがりはじめた。レーヨンということばは知られてはいたが、たいていの人は人絹といった。商売人は人絹ということばの悪いイメージを避けて、レーヨンが2割ほど混じっています、などということが多かった。短繊維のスフが入ってきたのはそれよりずっと遅れ、もう日中戦争のはじまっていた1937(昭和… 4. 素材と装い 411 レース/ニードルワーク 1881(明治14)年、東京の新橋日吉町に、東京府立レース製造所が、フランス人の女教師を雇って開設された。開化以前のわが国にはレース編みは知られていなかったし、衣服にもそれ以外にも、レースをつかう、レースで飾る、という習慣はなかった。それなのになぜ、公立の製造所を起ちあげたのかはわからない。欧米風の社交の習慣が入り込んでくれば、レースはきっと必要になるにちがいないという、おそらくは外国人の助言があったのだろう。製造所という名をつけられてはいたものの、実際には教習所であり、その生徒の多くは華族や官吏の子弟… 4. 素材と装い 412 ニット/メリヤス 縦糸と横糸を直角に交錯させて織りあげた布が織物なのに対し、一本か、または数本の糸をからめて作りあげた布が編物だ。糸でなく、太い紐を材料にする組物というものもあって、一応べつにしているが、編物のなかにも、組物につかう紐より太い綱をつかう漁網のようなものもある。金網や籠や笊のように、繊維以外の素材をつかって編むものもあり、あまり視野をひろげると無意味に理屈っぽくなるから、ここでは服飾素材としての編み布に限定する。編む、というもっともふつうの英語はニット(knit)で、フランス語ではトリコ(tricot)。毛… 4. 素材と装い 413 毛糸編/セーター 毛糸編物も1880年代(ほぼ明治10年代)、あるいはそれよりもうすこし早くから、在留外国人の夫人連が、手先が器用で、新奇なものへの意欲の旺盛な日本女性に手ほどきしたのが、最初だったろう。すでにそのころの[東京日日新聞]は、芝の狩野しまなる女性が婦人編物会をつくり、入会者が多く、そこでの製品を売りさばく店もできている、と報じている。1887(明治20)年という年は、いわゆる鹿鳴館時代の終息期にあたり、2、3年前の束髪の流行にもかげりの見えはじめた時期だったが、「すこし蟹文字でも覗く女は、束髪に毛糸の肩掛で… 4. 素材と装い 414 男性洋服一般 男の洋服は、警察官と官員さんたちによって広まった。もちろんそれに異人さんたちや軍人もはいるが、こういった連中は街中で、そうそう一般市民たちの眼にふれることはなかったろう。すでに1870(明治3)年という早い時期に、法令によって洋服型の「制服」が制定された(→年表〈事件〉1870年11月 「洋服型の制服」【太政官布】第800 1870/11/5)。まだ官職制度も定まっていない状態だったから、衣冠の代わりをなすとか、無位非役までの士族まで着用を許すとか、かなり後ろむきの文言があり、その実効性も疑わしい。官吏… 4. 素材と装い 415 ネクタイとカラー 男性ジャケットの襟もとが、われわれがいま見なれているスタイルにほぼ定着したのは、1930年代(昭和前半期)に入ってからのことらしい。明治時代のカラーは堅い立襟のハイカラーがふつうで、カラーだけとりはずして洗濯できるようになっていた。ハイカラの語源がここにあるだけに、気どった人間はむりをして、外国人にくらべると猪首の日本人には不似合いな、高いカラーをつけたようだ。1910年代(ほぼ大正前半期)になるころには、大部分の勤め人がふだんに着るワイシャツは、シンプルな折襟のいわゆるレギュラー・カラーになって、取り… 4. 素材と装い 416 フロックコートから背広へ 男性の服装の近代は、紋付羽織袴から、背広のスーツへのプロセスだった。近代のほぼ前半、1900年代頃(ほぼ明治末)までは、背広のスーツとフロックコートがおなじように用いられていた。第二次大戦後でいえば、黒っぽい両前(ダブルブレスト)の背広三揃え、という場合には、だいたいフロックコートが着用されていた。もちろんそれは職業、また地位にもよる。銀行員とか、帝大の教官とか、官庁の少なくとも中間管理職以上は、ふだんもフロックコートだったようだ。もっとも夏目漱石の『三四郎』(1908)のなかに、帝大教授である広田先生… 4. 素材と装い 417 フィット 1908(明治41)年のある流行誌は、日本人の洋服の欠点として、袖が短いこと、カフスを現すこと、ズボンが短いこと、背広が短いため貧相に見えること、等をあげている(【流行】(白木屋) 1908/1月)。要するに、身体にあっていない、ということだ。明治の末というこの時代は、男子の洋服というと、フロックコート、モーニングが、背広と対等の存在だった。もちろん洋服を着るような立場、ないし職業の人の場合だが、「今日は僻地寒村の村長も、郡役所の書記も(……)背広の洋服も入用なれば、フロックコートも通常礼服も備え置かざ… 4. 素材と装い 418 女性洋服一般 一年を通じて、街に洋服すがたの女性がめずらしくなくなったのは、1930年代(ほぼ昭和10年代)の後半だったろう。もちろんそれは大都市でのことだが。もう日中戦争のはじまるすこし前ということになる。それ以前でも女の人の洋服はいくらでも見られたが、それはほとんど職場の服装だった。デパートの店員、バスの車掌さん、女工員、学校の先生――などなど。昭和の初めに、洋服が着てみたいのでバスの車掌の試験をうける娘のはなしが、新聞で紹介されたことがある。発車オーライという「英語」とともに、バスの車掌はこの時代のモダンな職場… 4. 素材と装い 419 アンダーウエア 下着という日本語にはあいまいさがある。和装がまだ日常生活に生きていた時代には、このことばは、(1)おなじかたちのきものを重ね着したとき、内側に着るきもの(→参考ノートNo.434〈襲ね〉)、(2)肌に接していて、外には見せない衣服、というはっきりちがうふたつの意味をもっていた。あいまいさを避けてここで用いたアンダーウエアとは、もちろん(2)を指している。下着ということばがこのようにふたつの意味をもっているので、古い時代は、また現代でも、あいまいさを避けるためには、肌に接する衣服についてはべつの言いかたを… 4. 素材と装い 420 シャツ シャツは開化期の浜ことばではチャツという言い方もあったらしいが、それは例外として、わりあい早く日本人に受けいれられたカタカナ名前だった。しかしそのわりには、名前と、もの自体とがむすびついていない。明治のごく初期の、和裁洋裁の区別もなかった裁縫書のなかでも、おしまいの方の頁に、シャツとズボン下の解説の加えられているものがけっこうあって、このふたつはそれまでのきもの同様、その後長いあいだ、家庭の女性の手によって縫われていたものだろう。なかには脇線などが曲線裁ちのデザインもあり、とまどうひともあったにちがいな…