| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 403 |
| タイトル | 木綿地 |
| 解説 | 木綿は古くからあったもののように思われがちだが、栽培が全国にひろがったのは江戸時代もおわりのころで、それでも山間地などでは明治になっても、手にいれるのがむずかしく、非常に貴重なものにされている地域が残っていた。 綿花の栽培は全国的だったが、ほんらい暖地の植物であるため、良質の木綿は西日本で生産されている。薩摩木綿、長崎木綿、河内木綿、松阪木綿、三河木綿など、地名のついた木綿織物がよく知られていて、たいていはそれぞれ特色のある縞織物をもっていた。 幕末に書かれた『守貞謾稿』には、「今世河州(=河内)を第一とし、また産すること甚だ多し、京阪の綿服には河内木綿を専用とす(……)然れども、よりいと細からず染色美ならざる故に江戸にては不用之(……)」とある。京阪では奉公人のお仕着せといえば河内縞にきまっていたが、江戸では松阪縞が多かった。 お仕着せとかぎらず、縞の着物に前垂ごしらえ、といえば、明治に入っても堅気の商人の制服のようなものだった。ただし旦那衆になると、おなじ縞の着物でも紬になる。幕末から明治にかけての、職人たちをふくめて、江戸の庶民が日常着ている半天や股引は、濃い藍染めの非常に細かい縞柄――盲縞(めくらじま)とか、微塵縞、弁慶縞とかだった。幕末の外国からの訪問者は、日本人のだれもが黒っぽいものしか着ていないことに、つよい印象を受けている。もちろんこれは開化以前のはなしだが、現代の日本でも似た印象がありそうだ。 幕末から1880年代(ほぼ明治10年代)あたりまでの庶民のあいだでは、双子縞が人気だった。双子縞の起源についてはいくつかの説があるようだが、ともあれ江戸か、江戸にあまり遠くない場所で幕末に織りはじめられたらしい。それが紺の盲縞にならんで流行にのしあがったというのは、盲縞の暗さに飽いた人々の欲求に合致した、という理由もあったかもしれない。 一口に双子縞といっても色柄はさまざまだったろうし、ずいぶん変化もしているので、ひとつふたつの例をあげてコレと示すことはできない。古くからある唐桟に似ていて、「色沢艶美時好ニ適シタ」(『織物資料』第1)デザインだった、ということだから、男ものとしては派手な部類だった、とはいえそうだ。ひとつこんな事例がある。『半七捕物帳』の「人形使い」のなかで、池ノ端の人殺しの容疑者の風体を、目撃者が、「十露盤(そろばん)絞りの手拭いで頬被りして双子の半纏を着た男」と、半七に告げている。それは安政(~1860年)の末のことで、「双子の半纏をきて十露盤しぼりの手拭いをかぶった男は、そのころ江戸じゅうに眼につく程にたくさんあった」とも書いている。その時代、真冬の十時を過ぎた池ノ端は暗い。小料理屋の軒灯の明るさぐらいで見てとれたとすると、双子が夜目にもそれとわかる、かなりあざやかな柄ゆきだったということになる。1873(明治6)年生まれの岡本綺堂は、双子をよく知っていたはずだ。 明治時代の小説の衣裳づけには、双子とならんで、紡績なになに、瓦斯なになに、ということばがしきりに出てくる。 紡績絣づくめの粗末な扮装であるが(……)(内田魯庵「新詩人」『社会百面相』1902) こうした場合の紡績とは、手紬の木綿に対して、機械紡織の安物の糸で織った着物を指している。一般に糸が細くて弱いと考えられていたようだ。 瓦斯糸というのは、ガスの炎のなかを通過させて毛羽立ちを焼きとり、絹糸のような光沢を生じさせた木綿糸。絹織物のもつ美しいツヤへの願望はつよかった。そのため綿織物もやがて絹糸を交織するようになる例が多く、双子織もすでに1880年代半ば(昭和10年代後半)には、絹綿交織がふつうになったらしい。1900(明治33)年以後になると薬品によるさまざまな表面加工の技術が発達したため、瓦斯糸は忘れられた。 実用繊維としての綿の重要性は薄れることはないが、和装にかぎっていえば、その需要はだんだんと浴衣や襦袢など、洗濯のはげしい衣料にかぎられていった。1920年代後半(昭和初め)に入って、都会の女性の和装がほとんどおしゃれ着、外出着になってくると、木綿着物のでる幕はなくなった。じつは20世紀に入ってから(明治末以後)の木綿織物は、柄ゆきのうえでもいちじるしい進歩をみせているのだが、それにふさわしい評価を世間では与えていない。 また、製織・仕上加工技術の進歩によるさまざまな絹綿交織ものの人気も、ほぼ1910年代から1920年代(大正末~昭和初め)にかけての一時的なものにおわった。綿糸にとっての新しい、手ごわい敵は、1930(昭和5)年頃からの安い人絹衣料の出回りだったろう。 何しろ店頭の小僧君や番頭さん、それに小中学生までがほとんど全部、洋風の服をふだん着にする様になったり また女中さんの盆暮のお仕着せも、この頃では大部分二三円のメイセンとかレイヨンの安物に移り、農村などでは益々レイヨンもの万能時代、昔風の極く堅い家が、紡績の入ったユウキ等でふみ留まっているという有様で、一般の木綿物は今や服飾として独自の地歩を保つことが出来ない迄に没落した。 とはいえ、この時代、人々がなだれをうつように進んでいった洋装は、男性の外出着や若い女性のおしゃれ着を除けば、ほとんどが木綿の世界だった。子どものときから洋服生活が身についた男性のほとんどは、一生絹ものを肌につけることなく終わる人も多い。木綿がなくてはならないものであることは、やがて戦時体制というかたちで立証された。実用繊維としての綿布は毛織物同様不足を告げ、しかたなしのシルクの背広や、御召や銘仙の防空服装が街に現れる。 それ以前の平和な時代にも、もちろん綿布はいつも、御召や銘仙が着られない人のための安物、という立場にあったわけではない。たとえば湯上がりの素肌に着る、糊のきいた木綿浴衣の味がそれだろう。しかし木綿布が、その独自の価値と魅力を示す領分は、概してその時代の着物の文化の外、せいぜい周辺にあった。 そのひとつはコール天(corduroy)で、これは畝織りの厚地木綿だ。わが国には1890年代初頭(ほぼ明治20年代前半)に輸入されているが、数年後には東京で製造され、最初はもっぱら鼻緒として利用され、関東大震災(1923)頃から、男の子のズボンとしては理想的なものと推奨される(渡辺滋「児童被服用として理想的なコール天」【婦人画報】1921/3月)。男性のズボンとして広く使われるようになるのは戦後のこと。 ビロード(velvet)は近世初期スペイン人のもたらしたもので、その後国内でもわずかだが模織されていたようだ。衣料としてはフォーマル・ドレスのほか、これも鼻緒や足袋として使われていた。足袋地として丈夫なところから、鬼足袋という商品名がある。なお、ビロードと別珍とは剪毛のしかたに違いがあるだけなので、名称には混乱がある。 (大丸 弘) |