| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 401 |
| タイトル | 和服地一般 |
| 解説 | 開国当時、衣服の素材にとっての黒船は毛織物だった。築地、そして横浜の外国人商館がもちこむ商品は多彩だったが、なかでも各種の毛織物は重要な輸入品目で、数量も多かった。欧米に則った官制をつくり、行政官や軍人、そして警察官や、鉄道、郵便職員のすべてを欧米風の官服で装わなければならない。それには大量のラシャ(羅紗)が必要だ。かなり後々まで、洋装反対の論拠のひとつはラシャの輸入によって莫大な金銀が国外に流出する、という怖れだった。そのために日本国内でも千葉県などで牧羊が試みられたりした。 ラシャ以外で、日本人に早い時期に受け入れられた毛織物はフランネルだ。フランネルは主として肌着としてよろこばれた。和歌山県のように、維新直後といってよい時期に殖産事業を起ちあげた県では、このフランネルに目をつけてその移植に成功している。しかしまもなくセルの方により大きな人気がでてくる一方、フランネル自体も、生産を需要の大きくなってゆく綿フランネルの方に転換してゆく。 丈夫で、水にもつよいセルは、袴などをふくめた実用着として次第に販路をひろげた。1900年代以後(ほぼ明治30年~)になると、袷と単衣もののあいだの初夏の素材として、なくてはならないものになった。ただしその時代でも、上等の品は舶来でなければならなかったようだ。 毛織物のうちでもっとも大衆的な人気をかちえたのはモスリンだったろう。東京方面では一般にはメリンスといわれ、明治時代には安物でケバケバしいものの譬えにされるくらいだった。女の子のふだん着や帯によろこばれたが、毛織物の染着のよさからその染め色の華やかさがだんだん見直され、国内でもしだいに生産がさかんになって、1900年代には輸入品を必要としないようにまでなる。 このように各種毛織物の生産がさかんになるなかで、かんじんのスーツ、各種制服、また新しい用途としての婦人用コート等のためのラシャについては、1920年代後半(昭和初め)になってようやく、外国産に劣らない品質のものが日本でも製織されている、といわれるようになる。とはいうものの、とりわけテーラーたちの、英国の有名ブランドへの信頼は簡単に消えはしなかった。 時代が変わっても、きもの地の中心はやはり絹物であることに変わりはない。和服地にかぎらず日本人の絹への執着はつよかった。アメリカ生活から久しぶりに帰朝したある洋裁家がいちばん目についたのが、女の子の洋服が縮緬や高価な絹物製が多いことだった、と言っている。「晴着になると和服同様、絹布でなくてはならぬように考えられているようです」(高橋美代子「経済で上品な少女ドレス仕立て方」【主婦之友】1923/7月)。 政府が国の輸入超過を補填するために、西陣等の絹織物の輸出をはかったことも当然だ。しかし二次製品としての錦、緞子類も、また白羽二重類も、当初の輸出金額は意外に小さい。その理由は、ひとつには欧米人の嗜好にあうようなデザインの工夫がなかったこと、またひとつには、絹素材の品質自体が欧米の製品に及ばなかったためだろう。 明治初年の西陣は火の消えたような状態で、木綿織物の製作に転向した機業家も多かった。西陣の再生のためには、そののちリヨンなどからの、進んだ技術の導入を待たなければならなかった。 絹織物の種類は多く、そのときそのときの流行もさまざまだが、着尺、つまりきものとしてもっとも好まれたのは御召といってよく、とくに近代後半期はそうだった。縦糸か横糸に、あるいはその両方につよい撚りをかけて織った織物が、ちぢみ、あるいは縮緬だ。撚りのない糸で織った羽二重などとくらべると表面が華やかで、また柔らかくもあるから、縮緬類は衣服素材としてはとりわけ女ものにはよろこばれ、値段も高い。御召は縮緬中の高級品だ。 御召が贅沢品といえるのに対し、絹織物のなかでもっとも実用的だったのが銘仙だろう。 銘仙は節糸などやや品質のおちる絹糸をもちいて、平組織で織りあげた丈夫な生地。戦前はたいていのデパートには銘仙売場があり、専門の販売員が何人もいるくらい大衆的な人気があった。それだけに種類、たとえばいろいろな交織品も多い。 紬糸を用いた絹織物としては結城紬、大島紬の名が代表的だ。真綿から指の先で糸を揉みとる紬織物は、絹であってもそれほどなめらかな光沢がない。そのため江戸時代には、武士階級の着る黒羽二重の紋付羽織の光りものに対して、富裕な町人階級は好んで紬を着た。そんな記憶が残っているわけではないだろうが、光るきものの仰々しさは、とりわけふだん着には嫌われるから、結城紬も大島紬も、庶民にはチョット手の届かない値段ではあったが、富裕の人たちにとってはやはりふだん着なのだった。 よく知られているように日本の木綿栽培は、値段が安く品質もよい輸入綿花のため、明治の早い時期に壊滅した。それ以後のわが国の綿糸は、外国産の綿糸をどう輸入し、どういう比率でまぜるかということが眼目になった。 大衆の日常着である木綿織物では、明治のごくはじめに大流行した双子織が、その後もひきつづき近代の前半期にはひろく用いられていた。双子織はもともとは埼玉県の川越の特産だったのだが、需要のひろがりに応じて各地で生産されるようになる。お仕着せのきものや職人の半纏といえば双子ときまっていたが、日常的になりすぎたためか、現代では残っているものを見る機会がとぼしい。表面を熱処理してケバを焼いたガス双子は、光沢があるためにやや上等向きに使われた。 新政府は産業振興に力を注ぎ1880年代(ほぼ明治10年代)に入ると、そう間隔をおかずに大規模な勧業博覧会をくりかえし開催した。その染織館の全国からの展示品を見ると、どこどこの名産といわれてきたものが、何カ所ものべつの機業地でもつくられているのがわかる。博覧会は、そういう傾向を刺激し、促進することにも役立ったにちがいない。 織物の種類は江戸時代からも多様だったが、機業者の競争心を煽るような環境の点からも、意匠や技術の伝播のスピードという点からも、製品の品質が向上し、種類がより多様になったことは、むかしとは比較にならない。 1910(明治43)年10月の三越呉服店の商品カタログには、丸帯の写真つき解説のなかで、このように何百種類とある帯地では、一旦符牒を取ってしまったら、商売人でもわからなくなってしまうものが多い、という嘆きがでている。その嘆きを倍加させたのは、1920年代(昭和初め)以後急速になった、交織品の増加だったろう。 三遊亭圓生(六代目)の思い出ばなしに、むかしは前座が絹物を着ることを禁じられていて、あるとき光沢のあるきもので楽屋入りした前座を師匠が見とがめて注意したところ、イエ、これは新御召でございますといいわけする。師匠は、新御召でもなんでも、光るものを着ちゃいけません、と小言をいった。新御召とか新八反とかいうのは、縦が絹、緯が木綿の瓦斯糸。ほかに新大島とか、新を冠したまがいものが震災前にもつぎつぎと現れていたうえ、1930年代(昭和戦前期)になると、さらに紛らわしい人絹の交織品がひろい人気を獲得する。 1930(昭和5)年1月の【婦女界】では、16、17のお嬢さんが、和服一揃いを新調するのにどのくらいの費用がかかるかを詳しく紹介している(→年表〈物価・賃金〉1930年1月 「和服一揃ひの新調費三種」【婦女界】1930/1月)。興味のあるのは、和装のレベルを、モスリン級、銘仙級、縮緬級A、縮緬級B、の4段階に分けていることだ。十代の娘ということでの偏りを留保すれば、これはその時代――1930年代(ほぼ昭和戦前期)を中心とした和装素材の、社会通念としての格付けの一例を示していると考えられる (大丸 弘) |