| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 407 |
| タイトル | 羅紗/モスリン |
| 解説 | 毛織物はオランダ人の手によって、江戸時代を通じて輸入はされていた。ただしその量はわずかであり、一部のひとが特殊な衣料や持物に使っていただけで、その代表的なものがラシャとゴロフクレンだった。 羅紗はポルトガル語の“raxa”が語源とされ、厚地で、織目が見えないくらい縮絨、起毛加工がほどこされたもの、という説明が信頼できる辞書類で共通している。 新政府樹立後の日本がまず必要とした繊維素材は、軍人、警察官、そして政府の役人たちの制服として用意しなければならない羅紗だった。じつは日本の気候では、政府がなにかと手本としたドイツ、フランス、イギリスとはちがって、羅紗地の制服が必要な時期はそう長くないのだが、当時の高官たちは、羅紗地の国産こそ緊急の必要と考えたらしい。まず国内各地で綿羊の飼育が計画され、メリノ種などの羊が輸入される一方で、1876(明治9)年には、東京郊外の千住に官営羅紗製絨所が設立されている。 千葉県の牧場からはじまった綿羊の飼育が、羊たちの生まれ故郷とくらべて湿潤な日本の気候では期待したような発展がなかったのに対し、千住製絨所での毛織物生産はそこそこの成果をあげていた。1885(明治18)年にここで製織した毛布を試みに陸海軍で使用したところ、輸入品と変わりなかった、という記録がある。 この時代、毛布はふつうケットとよばれ、寝具としてではなく、マントとして愛用された。なぜか赤に人気があり、裾に2本の太い筋を織り込んだものが多い。明治の後半には、「赤ゲット」といえば田舎ものの蔑称になっていたことはよく知られている。 しかし毛布はしょせん毛布にすぎない。羅紗は軍服をはじめ、各方面の制服、また紳士服に一定の大量需要があるため、業界の規模や生産金額はけっして小さくないが、高級紳士服といえば、そのほとんどは輸入羅紗に頼らざるをえなかった。とりわけ日露戦争など軍需で業界が好況のときは、手のまわらなくなった民需は、すべて舶来羅紗に占められる状態だった。 国産羅紗の品質が舶来とくらべて、それほど遜色ないまでに向上するには、半世紀の年月を要したことになる。 従来、羅紗といえば舶来品と相場が定まり、事実国産羅紗は到底外国製品には及ばなかったが、最近我国の製絨工業が長足の進歩を示して、殆どすべての点で輸入品に遜色なきまでに発達してきた。 以前は毛織物といえば殆ど舶来品のように思われていましたが、近来では内地製のものが盛んに市場に現れ、(……)あるものは舶来品に比べて遜色がないまでになって参りました。 ゴロフクレンは「呉絽服連」と当て字される。オランダ語の“grofgrein”が語源。北村哲郎は「主として、アンゴラ山羊の毛(モヘア)を原料とした平組織の薄手の起毛しない毛織物」(国史大事典)とし、国語大事典では「舶来のあらい梳毛織物の一種。毛足の長い粗剛な羊毛を用いて織ったもの」としている。しかし現代では、ゴロフクレンはモスリンを指すもの、としている人が多いようだ。いずれにせよ、織物は商品だから、品質はたえず向上もし、市場に対応して変化もする。名前もあまりアテにならない。名前と品質をあまり固定的にむすびつけるのは考えものだ。ここでは明治以降のモスリンについてふれる。 モスリンはメリンスともいい、明治時代には唐縮緬とよぶひともあった。明治中期のある辞書では「メリノーと呼ぶ綿羊の軟毛を以て製したる、細口の毛の平織物であります」とある。メリンスという呼び名はメリノからきた、といっているひともある。手っとりばやくは、薄地の梳毛毛織物、というくらいで十分だろう。 モスリンは最初からそのきれいな柄で人気があった。それには、はるばる欧州の織元へ柄の注文をする、という努力までしていたせいもあるだろう。1880年代(ほぼ明治10年代)にはわが国でもモスリン友禅という名前で生産されはじめ、1894、1895(明治27、28)年には舶来モスリンの輸入が終わり、1900年代に入るころには、輸入の金額と比較にはならないが、輸出もはじまっている。 雑誌新小説のために、小説家の後藤宙花が、東京亀井戸のモスリン友禅染工場の探訪をした。応対にでた責任者は、モスリンの性格についてこんなことを言い放っている。 モスリンは絹布のように地ツヤのないもの故、薄色の妙味はえられないし、また間色と云うヒネった配合は一向面白くないし、また染色原料はことごとく人造(の)酸性、塩基性の染料のみであるから、むかしの友禅染と云わるる、かの温麗なものを売る事能わず(……)。何でも配色は三原色のハデなものをとって、調和のよろしきを計るのみである。(というのも少女のきものの需要が多く)これはハデな上にもハデにするものであるし、第二に二十歳前の娘盛りが眼に入りやすい、下着のたぐいか帯であるが、これも多くハデな、(……)モス友禅の模様はこの年頃の女の為に命脈を存じいると云うも過言であるまい。(……)斯ういう次第であるから、モス友禅に対し、錆色配合の縮緬などを比較して、彼これ注文をいうのは愚の極である。どうかすると呉服屋の番公(番頭)などには、この愚な注文をするものがないでもない。 モスリンは当然毛織物の特色をもっているから、シワになりにくく、肌ざわりが柔らかく、からだによくなじむ。染工場の責任者の言うようにモスリンはきれいな色で勝負するのだが、それはウールの発色のよさのせいだ。しかしその色に深みがなく、しばしば安っぽい印象なため、メリンスみたいな柄、といえば安物をくさす悪口になった。 とはいえ、1910年代(大正前期)以後には、モスリンくらい需要の多い生地はなく、ことに女の子の着物といえばほとんどすべてがモスリンといってよかった。浴衣にもモスリンが使われたが、綿毛交織のモスリンもよろこばれた。 メリンス友禅の生産地は最初のうちはもっぱら大阪だった。やがて東京でも生産が増えるにつれ、色使いも向上し、大震災に近い頃になると、東京風の色調といったものが見られるようになった(→年表〈現況〉1918年4月 「流行のモスリン」時事新報 1918/4/14: 6)。かつ、上等の製品になると、安物ともいえない価格になっていった。 現今のモスリンは羊毛の最もよいものを(豪州産羊毛の如き)原料として製織されたものですが(……)、型紙をもちいた手染めのものを本染めと称し(……)本染めはモスリンとして誠に風味があり、(したがって)値段も高い。(……)モスリンの特長は湿気を防ぐこと、肌ざわりのよいこと、シワにならないこと、耐久力のあることなどで、わが国のような湿気の多い国には最も適しているものと云うことが出来ましょう。(大丸 弘) |