近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 412
タイトル ニット/メリヤス
解説

縦糸と横糸を直角に交錯させて織りあげた布が織物なのに対し、一本か、または数本の糸をからめて作りあげた布が編物だ。

糸でなく、太い紐を材料にする組物というものもあって、一応べつにしているが、編物のなかにも、組物につかう紐より太い綱をつかう漁網のようなものもある。金網や籠や笊のように、繊維以外の素材をつかって編むものもあり、あまり視野をひろげると無意味に理屈っぽくなるから、ここでは服飾素材としての編み布に限定する。

編む、というもっともふつうの英語はニット(knit)で、フランス語ではトリコ(tricot)。毛糸のセーターなどはだからニットウエアだが、すこししゃれてトリコ(もしくはトリコット)とよぶ人もいた。

メリヤスは肌着用の薄地でやわらかい、伸び縮みのきく布、というふうに理解されていた。

およそ1920年代(大正末~昭和初め)までのデパートの商品カタログで、シャツといえば上着のすぐ下に着る今日のワイシャツ、それに対してメリヤスシャツというのは肌着を指すということになっていた。その時代まで男――とくに若い男は、ふつう、着物のすぐ下に、カラーとカフスのついたシャツを着ていた。このワイシャツ風のシャツに対して、より単純な仕立てのアンダーウエアがメリヤスシャツだ。

関東大震災(1923)のあとで芥川龍之介が、メリヤスのシャツの裏に蚤(のみ)が一匹いたら、詩なんか考えていられるもんか、と言った。自然の猛威の前に、人間の文化などいかにひ弱なものかを嘆いたことばと受けとられた。服装研究の立場からいえば、肌着のシャツはメリヤス、という観念が、この時代にもう固まっていたことを教えられる。

メリヤスはニットを意味する日本語で、もとは外来語だが江戸時代から使われているのだから、もはやカタカナで書く必要はないかもしれない。一般にメリヤスといえば、編物のうちでももっとも細い糸をつかった薄地の布を指す。念のためにいうと、音が似ているので混乱するひともあるが、メリンスはまったくべつのもので、これは薄地の毛織物モスリンを訛った日本語。

江戸時代にも輸入品のメリヤスはあって、メリヤスの足袋というのが元禄の『俳諧七部集』にものっている。そのメリヤス製品が本格的に生産されるようになったのは、開化以後のことだった。手芸のレースのように目の粗いものでなく、目のつんだシャツなどの実用品をつくるのだから、とても手で編んでなどいられない。開化後のメリヤスの歴史は、とりもなおさずメリヤス編機の輸入、改良、創意の歴史だった。

その改良、創意だが、基本的には先進の外国製編機を購入して、これを使いこなすことが、まずしなければならないことだった。つぎはその機械をわが国で試作することだった。けれども1870、1880年代(ほぼ明治初め~20年代初め)のわが国の機械工学のレベルでは、かりに外国の機器を眼にし、手にとれたとしても、おなじ物をつくるなどはたやすいことではなかったはずだ。メリヤス業に志をたてた旧士族らが、官立の印刷局や砲兵工廠にその模作を依頼しているのも、あながち見当ちがいとはいえなかったのだ。しかもそのあいだ、業者間の競争、駆けひき、あしの引っ張りあいもあったはずだ。このあたりのことは、すこし古いが藤本昌義の労作『日本メリヤス史』(1914)に委ねよう。

メリヤス製品は開化の直後から日本人によろこばれ、1870、1871(明治3、4)年には、東京でメリヤスのシャツ、ズボン下が流行したといわれるが、まだ手編みだったらしいから、ずいぶん高価なものだったろう。

日本でのメリヤス、とりわけ機械編メリヤス製造に拍車をかけたのは、軍人、警察官、そして官員さんたちによる、靴下、そのころの言いかたでは靴足袋の大量需要だったことはまちがいない。靴下はメリヤス製品のなかでもやや特殊なものだから、靴下編機の改良、工夫は、一般メリヤス製品とおなじレールの上にはのれず、やがて業界もべつのものになってゆく。

しかし靴下にせよシャツ、ズボン下類にせよ、機械を操作し、実際に仕事に従事するのは専門の職工以上に、内職の女性たちが多かった。1890年代(ほぼ明治20年代)の例でいうと、国産の50円くらいで手に入る編機1台があれば、それで3人ぐらいの口は養えるといわれた。とりわけ改良靴下編機は扱いやすく力もいらないので、東京では下谷本郷あたりだけでも、身分ある人の家族でこの内職をしている者が千人以上あると、女学雑誌は新聞を引用して報じている(「女子の職業」【女学雑誌】1896/7月)。

一般にメリヤス商といわれるのは、メリヤスの編立てそのものではなく、メリヤスの最終製品の製造販売業者をさす。そして実際にシャツや股引の縫製加工を受けもっているのは、ごく小さな家内作業、あるいは女性たちの内職だった。1919(大正8)年の『有利なる家庭の副業』(高落松男)では、婦人が家庭でできる副業のなかでは、メリヤスの縫製がなんといっても随一、といっている。

この本であげている大阪市の例によると、メリヤスの編立はたぶん蒸気の動力を用いた工場でおこない、すでに裁断も済んだシャツ、ズボン下などの、地縫い、襟周り、ボタンつけなどを家庭でうけもつのだ。ミシン1台もってさえいれば仕事のきれることはなく、大阪市内では天満方面から、福島、西野田にかけてがもっとも多いが、江戸堀界隈ではメリヤスシャツの上等ものを縫製している、という地域の特色もあるらしい。ただ、アイテムとしてもっとも数の多いのは猿股とのこと。

1892(明治25)年という早い時期でも、大阪市の商工業者ダイレクトリーには、たくさんのメリヤス商の名がひしめき、「舶来模造品洋服下着シャツ類」とか、「シャツ、胴着、パッチ、ズボン下、手袋、猿股、靴下」と製品名をならべたものも多い(中島邦太郎『大阪商工亀鑑』1892)。

明治末、1909(明治42)年のデータでは、メリヤス製品の生産は圧倒的に大阪と東京に占められ、大阪が611万円あまり、東京が261万円あまりで、ただし大阪の製品のうち419万円は輸出向け、となっている(【日本実業新報】1910/7月)。

昭和10年代の新聞に「世はメリヤス(ジャージー)時代(……)シャツ、肌着といえば、すぐメリヤスを思います」(→年表〈現況〉1936年10月 東京日日新聞 1936/10/16: 5)とあって、ジャージーという言い方が使われはじめていたことを示している。この記事では、そのジャージーが下着ばかりでなく、太めの糸を用いてセーターやジャケットにまで使われだした、と報じている。ニットシャツはスポーツウエアにはじまり、この時代に男女ともに日常的に愛用されはじめた。ただし、カットソー、という言い方は、戦前にはまだみられないようだ。

(大丸 弘)