近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 416
タイトル フロックコートから背広へ
解説

男性の服装の近代は、紋付羽織袴から、背広のスーツへのプロセスだった。

近代のほぼ前半、1900年代頃(ほぼ明治末)までは、背広のスーツとフロックコートがおなじように用いられていた。第二次大戦後でいえば、黒っぽい両前(ダブルブレスト)の背広三揃え、という場合には、だいたいフロックコートが着用されていた。もちろんそれは職業、また地位にもよる。銀行員とか、帝大の教官とか、官庁の少なくとも中間管理職以上は、ふだんもフロックコートだったようだ。もっとも夏目漱石の『三四郎』(1908)のなかに、帝大教授である広田先生が、天長節の式からフロックすがたで帰ってくるところがある。わざわざ言うところをみると、この時代はすでに、ふだんはフロックではない大学教授もいたのだろう。

背広の語源については諸説がある。しかし背広がどんな服であるかは問題がないから、語源の詮索はここでは無用とする。ほんらいスーツとは、背広の上着、同色のパンツ(ズボン)、ときにはそれにチョッキを組み合わせたものをいうのだろうが、現在では背広に色変わりのパンツを組みあわせてもスーツとよび、パンツをはかない人はいないから、結局スーツ、イコール背広のようになっている。またスーツは英語表記では“suit”なのだから、スートとよぶべきだという主張がある。もっともだが、風俗用語というものは世間のマジョリティに従っておかないと、なんのことかわからないから、ここでは日本語のつもりでスーツといっておく。

背広は福沢諭吉の『西洋衣食住』(1867 片山淳之助)に紹介され、その後の初期の裁縫書にも出ているのだが、明治初期――1870、1880年代の、着用状態についての記録はほとんどない。この時代の洋服は、政府高官たちの礼装と、各種制服がほとんどだったろう。軍人や警察官、鉄道・郵政職員たちの制服は、そのころ達磨服とよんでいた立襟が多く、これは学生の制服にひきつがれる。

一般に男性の洋服は、乗り物にのって通勤する人の数に比例して、増えていったと想像される。フロックコートを着るような地位の人以外の勤め人が着た洋服は、背広か、達磨服になる。しかし立襟や折襟で首もとまでボタンがけの上着は、現業の人むきだから、ほとんどの通勤者は背広ということになる。洋服細民といわれた人々をふくめて。

花柳小説で名高い平山蘆江は都新聞社の記者だったが、1930(昭和5)年に退社した。一説では、彼が洋服嫌いで和服での出社をしつづけたため、編集室にいづらくなったのだという。この時代の都新聞社の編集室には、編集長の長谷川伸をはじめ、和服に理解のありそうな文人たちが何人もいたのだが、しかし職場はもう背広の時代になっていたのだ。

その一方で、背広が普段着以上のものになる道のりは長かった。1891(明治24)年の、衆議院度量衡審査委員会に、商工局長の斉藤某が、背広で委員席に着こうとして退席を求められる、という小さな事件があった。この局長は結局フロックコートに着替えて、はじめて委員席に着くのを許されたが、この時代では当然だったろう。それから20年あまりのちの1913(大正2)年に、国会議員の、背広での委員会及び本会議出席を認めようという動きがあった。衆議院規則第172条に、「議員の服装は羽織袴、フロックコート、もしくはモーニング・コートに限る」とあるのを、「羽織または洋服」と改正しようというのだった。しかしこのときは院内各派交渉会での討議で終わった。その7年後の1920(大正9)年に、ようやく背広を黙許するということになる。ただし、無地、襟付き、という条件つきで(→年表〈現況〉1920年 「猛暑を機会に議員が背広服に」朝日新聞 1920/6/18: 5)。

1910年代(ほぼ大正前半期)に、紳士として社交生活を送るために必要な洋服として、[朝日新聞]は、モーニング、タキシード、フロックコート、それに日常着の背広をあげてはいるが、「フロックは外国では医者か坊主以外はほとんど用いないが、日本ではむしろ濫用されている……」(→年表〈現況〉1918年1月 「洋服を一通り揃へると」朝日新聞 1918/1/28: 5)といい添えているのは正しい。学んだ者のこだわりというべきだろう。

関東大震災直後の第47臨時議会では、お殿様の集まりである貴族院にも“平民化”の風が吹きこみ、服装は議員の常識に一任、という申しあわせがうまれている。その常識とは、黒無地であれば背広でも可、と解釈されていた。

ただし、黙許されたとはいえ、背広は神聖な議場ではあくまでも仮のすがただった。1928(昭和3)年の帝国議会開院式に、無産派の議員たち、社民党の西尾末広、大衆党の河上丈太郎、ほか5名が、背広で登院したことが大問題になった。開院式には天皇の行幸があったため、政友会、民政党から「諸君の潜在意識たる、国体に対する異心、並びに皇室に対する儀礼を蔑視せんとする観念……」のあらわれである云々という、大仰な詰問状まで出されている(→年表〈現況〉1928年12月 「無産派代議士の背広登院と不敬問題」報知新聞 1928/12/28: 7)。

地方議会の議場では国会ほどの議場神聖論はなく、逆に背広以外の服装を問題視された例があった。1918(大正7)年、東京市議会において、そのときの田尻稲次郎市長が、背広でなく詰襟服を着て出席しているのを、「異様な服装者を退場せしめる、という規定にもとづき退場させよ」と、野党議員から咎められている(→年表〈現況〉1918年12月 「市長の詰襟で余興気分の市会」読売新聞 1918/12/13: 夕7)。

すでに諸官庁の職員については1919(大正8)年に、これまでフロックコートを用いてきた場合においても、モーニング、背広あるいは紋付羽織袴の着用を認めている。これは欧米の現状にかんがみてのことだった。しかもなお、新内閣の閣僚勢揃いの写真を見ると、頑固にフロックコートを着ている硬骨漢の大臣が、1930年代、40年代(ほぼ昭和前半期)まで、消えてはいない。

ともあれ昭和に入ったころには、背広はとりわけサラリーマン社会では定着していた。その時代の男性は、「私は普段着の背広を二、三着もち、薄汚いきものを一、二枚持ち、あとは夏なら浴衣、冬ならドテラである」(→年表〈現況〉1938年7月 長谷川修二「着物と洋服の二重生活を論ず」【スタイル】1938/7月)あたりが、ひとつの標準だったろう。

(大丸 弘)