| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 411 |
| タイトル | レース/ニードルワーク |
| 解説 | 1881(明治14)年、東京の新橋日吉町に、東京府立レース製造所が、フランス人の女教師を雇って開設された。開化以前のわが国にはレース編みは知られていなかったし、衣服にもそれ以外にも、レースをつかう、レースで飾る、という習慣はなかった。それなのになぜ、公立の製造所を起ちあげたのかはわからない。欧米風の社交の習慣が入り込んでくれば、レースはきっと必要になるにちがいないという、おそらくは外国人の助言があったのだろう。 製造所という名をつけられてはいたものの、実際には教習所であり、その生徒の多くは華族や官吏の子弟だった。この時期、官営の羅紗製造所とか硝子製造所とかが必要にせまられてつぎつぎとつくられ、たいていはそれなりの成果をあげていた。レース製造所はそのなかでも、もっとも振るわなかったプロジェクトのひとつだったようだ(→年表〈現況〉1884年4月 「レース製造所」郵便報知新聞 1884/4/3: 2)。 開化期の東京、横浜、神戸には、お雇い外国人に同行してきた大勢の外国人女性がいた。そういう女性のなかには裁縫や各種の手芸に練達の人もいて、開化期の新聞には、その技術を日本女性に教えようという広告が頻繁に見られる。そういうお稽古によってわが国の一般家庭にもっとも浸透したのは、おそらく毛糸編物だったろう。それにくらべるとレース編の普及はもうひとつ地味だったようだ。啓蒙的実用書でのつぎのような言及の例はあっても、実際にどれだけ生活に入っていたかの確証がとぼしい。 近来泰西の文物制度輸入してより、諸種の技芸もまた伝来し、毛糸編物、レース糸細工物の如きは、上下のわかちなく之を知らぬものなき有様である、而して此の手芸は婦女子の好んで練習するところのものなれば、その熟練すること早く、少女に至る迄も巧みに之を製作するに至る。 その一方で、女学校教育の教科としての欧風手芸も、堅実なステップを踏んでいた。そしてこちらの場合も中心は毛糸編物で、造花、西洋刺繍がこれに次いでいた。 東京府立レース製造所はその後名目どおり製造工場となり、製品をいろいろな機会をとらえて外国に送って国際的評価を仰いでいる。その結果はときによってちがうが、ジャポニズムのブームにのって、応じきれないくらいの大量注文をうけたこともあれば、値段が高すぎるということで取引不成立だったこともある。 1910(明治43)年ロンドンで開催された日英博覧会への出品レースについては、「価格は低廉なるに相違なきも、惜しむらくは材料の綿糸太きにすぎ、且つ技術の点に於いて未だ大いに進歩の余地を存するのみならず、意匠に於いても亦大いに考慮を加うべきものあり、(……)」(【染織時報】1911/2/20)とさんざんだった。 1880年代後半(明治20年前後)には、ヨーロッパでは機械レースの製造がさかんになった。機械レースの発展は一部のレース製造業には脅威だったが、全体としてみれば、機械レースは手編みレースの領域を侵すものではない。むしろ安いレースが大量に供給されることによって、衣料品、家具などの広い範囲に、大衆のレース趣味をひろげるのに役立つ。 わが国の場合がまさにそれだったといってよい。1910年代(ほぼ大正期)以後の文化住宅は、赤い屋根瓦やピアノ、縁先の籐椅子とともに、白いレースのカーテンによって象徴される。お嬢様の心尽くしの、ボビンレースのテーブルセンターとはちがって、窓々のカーテンのレースは、なんの変哲もない大量生産品だが、これまでの竹簾とはひと味もふた味もちがう、レース愛ともいうべきものを、はぐくんだにちがいない。 一方、1890年代から1910年代にかけて(ほぼ明治20年代~大正前半)は、輸入機械レースによる、女性下着のレースづけがはじまる。そのターゲットがまず和装下着類だったことは、ここにもまた隠れた折衷服のひとつの例があったことになる。 「もう襦袢の襟までレースの縁型になってきたのですから(……)」と【時好】で言っているのは1905(明治38)年10月のこと。1929(昭和4)年7月の【三越】には、筒袖と長袖の胴抜、おなじく筒袖と長袖の総レースの既製盛夏用長襦袢の広告がある。胴抜というのは胴以外、総レースはもちろん胴部分を含めたぜんたいをレースとした長襦袢だ。 下着のトリミングとしてレースを飾るのはもちろん西欧の古い習慣だが、その執念は、最近の100円ショップのパンティにまで引き継がれている。 下着にレースを使うのはもちろん、昭和のはじめ、モダンガールが盛夏に絽や明石を着て警察に睨まれたのとおなじように、透けて見える、のが目的だが、レースのトリミングがないとなんだかさびしい、という気持ちもあるのだろう。その、なんとなくさびしいのを補うために、1910年代以後(大正後期~)、和装にも洋装にもふんだんに利用されたのが、レース、西洋刺繍など、各種のニードルワークだった。 洋装が日本人の生活のなかに入り込んできた時期、それまでの着物柄、とりわけ友禅モスリンなどの派手な柄ゆきを見なれていた女性たちが、単純といえば単純な洋服の柄、ときには無地の洋服地に違和感をもったとしてもむりはなかった。とりわけ洋装化の先頭をきった――着させられた少女たちが、あるいは少女たち自身よりもその母親たちが、あんまりさびしいからと考えて、お洋服にたくさんの「可愛い飾り」――フリル、ボウ、ジャボ、タック、そして襟や、袖口や、裾に、きれいなレースのトリミング、胸元には心のこもったフランス刺繍の小鳥、等々を加えたのはむりもなかった。【婦人之友】などもそういう風潮の牽引車だった。 ただしそんな感覚も、さすがに1930年代をすぎるころ(昭和10年代半ば)には冷めていたようだ。戦争にかかっていたこの時代、男のシャツをブラウスに更生する工夫のなかで、ある洋裁家はこんな皮肉を言っている。 袖だけ、毛糸で編んでもよいし、紺かなにかの無地にしてもよい。ただ、いくら刺繍がお得意でも、ここでは腕を振るわないように。常識になっている、「無地のさみしさを刺繍で補う」、あれは婦人雑誌付録がふりまいた罪である。(大丸 弘) |