| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 419 |
| タイトル | アンダーウエア |
| 解説 | 下着という日本語にはあいまいさがある。和装がまだ日常生活に生きていた時代には、このことばは、(1)おなじかたちのきものを重ね着したとき、内側に着るきもの(→参考ノート No.434〈襲ね〉)、(2)肌に接していて、外には見せない衣服、というはっきりちがうふたつの意味をもっていた。あいまいさを避けてここで用いたアンダーウエアとは、もちろん(2)を指している。 下着ということばがこのようにふたつの意味をもっているので、古い時代は、また現代でも、あいまいさを避けるためには、肌に接する衣服についてはべつの言いかたをした。肌着、襯衣(しんい)、接膚衣(せっぷい)、がそれだ。明治時代の実用書などには、「襯衣(シャツ)」というルビの振ってある文章によく出会う。 肌に接していても、それしか着ていないため上着でもある衣服、夏のTシャツとか浴衣とかは、下着ともアンダーウエアともいえない。また外には見せないといっても、ジャケットや、詰襟の学生服の内側に着込むワイシャツや、セーター、ベスト類も、下着、アンダーウエアには入らない。 アンダーウエアの目的はいろいろあるのだが、肌に接していることと、他人の眼にふれないというふたつの特色が、この衣服の個性を決めている。 肌に接しているために、それを着ているかぎり、私たちはこの衣服を皮膚で感じていなければならない。硬さ、柔らかさなど、素材の材質感、また保温力、吸湿性など、素材の繊維としての機能についての議論が、アンダーウエア以上に切実なものはない。 開化当時の日本人のアンダーウエアは木綿がふつうだったが、麻もひろく用いられ、また素肌に絹の感触を好む人もわずかながらいた。文献資料を信じるかぎり、毛織物が舶来した当時の日本人は、好んで毛織物のモスリンやネルを肌着として用いている。冬季、現代よりはかなり気温の低かった東京などでは、木綿の襦袢より毛織物の方がずっとぬくぬくとしたのだろう。 内側に着こむため、ひとの眼には触れないという特色は、ひとつには汚れをあまり気にしないという結果を生む。水に不自由のない日本人は清潔な民族ともいわれるが、それにしてはかつての日本人は、アンダーウエアの清潔にはわりあい無頓着で、肌につけるものもめったに洗わない人が多かった。1917(大正6)年、すでに水道も東京市中に行きわたっていた時期でさえ、ある医師は、「入浴して清潔にする事は誰でも知っているが、肌着を清潔にする事には気付かぬ人があるかもしれぬ」(→年表〈現況〉1917年10月 佐々木秀一医博「通俗講話」東京日日新聞 1917/10/28: 5)と、いくぶん遠慮がちにいっている。 開化期には、日本人は入浴好きでからだはきれいだが、着ているものをあまり洗濯しないため、彼らのそばによると異臭がするなどと、不名誉なことを外国人から指摘されているだけでなく、もっと肌着をしばしば洗って清潔にするようにとの投書が、同時代の新聞にも見られる(→年表〈現況〉1874年3月 岸田吟香「養生小言」東京日日新聞 1874/3/6: 1;→年表〈現況〉1875年5月 「投書―肌着の洗濯」1875/5/30: 2)。 この点は現代の日本人とはずいぶん大きなちがいだが、1926(大正15)年の初夏に、【主婦之友】が「職業に働く若き婦人の身嗜みとお化粧の実験談」という聴きとりをおこなったさい、肌着の交換について、人一倍汚れるという百貨店の女店員、看護婦、小学校教師が週2回平均、店員は冬ならば週一度、と答えている(【主婦之友】1926/6月)。 アンダーウエアにはかぎらないが、明治の日本人があまり洗濯せず、垢染みたものを平気で身につけていたのは、洗濯しにくいきもののつくりや、水道の不便さのほか、日本人がからだの臭いを放散しやすい衣服の着方をしていることも、理由のひとつにあげられるかもしれない。これはあたかも穴倉式の西洋型住居と、風の吹きさらしの日本の木造住居のちがいに対応しているようだ。 ひとの眼にはふれない、ふれにくいという特色は、アンダーウエアをセックスアピールとむすびつける。これは日本も欧米もちがいはない。もっとも江戸時代の女性の色気は、長襦袢と腰巻の赤さに集中していた感がある。草双紙でも落語でも、娘や女房のお床入りといえば、「燃えたつような緋縮緬の長襦袢」というきまり文句が百年一日のようにくり返されていた。赤い腰巻は、1920年代以後(大正末~)に一世を風靡した、毛糸の都腰巻でも変わらなかった。さすがに1931(昭和6)年にもなると、「昔から下に着るものによく赤い色が用いられていますが、これはもう時代遅れです。やはり清潔な白い色にしておきたいと思います」という提案はあるが(→年表〈現況〉1930年11月 芝山みよか「温く軽やかにひきたつ姿―冬、和服の着コナシはこういう風に工夫して」読売新聞 1930/11/24: 5)、まだ少数意見で、戦後の焼け野が原の東京でも、色の褪めた赤い腰巻が物干しにひるがえっていた。 アンダーウエアにはできるだけ清潔な白を、という主張は、関東大震災(1923)のころからみられるようになる。それまで和装の肌襦袢には、男女とも更紗や、薄浅黄などの藍染を用いるひとが多かった。白いアンダーウエアのひろがりは、男性からはじまった西洋風シャツの浸透の結果と考えられる。 白いワイシャツと、その下に着込む肌着の白シャツは、明治期の男性にとって、上は薩摩絣のきものに兵児帯であっても、ほぼ例外のないスタイルだった。きものの襟もとにのぞくカラーや袖口のカフスの白さは、まさしく明治和服の特色だ。もっとも書生さんたちのカフスやカラーがいつも真っ白だったという保証はないが。明治末の[読売新聞]に、「履き違えたハイカラ」という論説が掲載されている。 総じて本場のハイカラといえば冬季にも下襯衣なしに白襯衣を着くるという様な男らしき剛健なる処が身上なるに(……)。 ワイシャツの下にアンダーシャツを着るか着ないかという問題は、現代のおしゃれ論議にもまだひきつがれている。もし着なければ、ワイシャツ自体がアンダーウエアとなる。しかし日本の、とりわけ夏の気候で、それが耐えられるかどうか。ぐしょぐしょのワイシャツを着ていることが、「男らしく剛健」ということになるのか。文化の移植は教条主義ではうまくゆかないだろう。 1920年代(大正末~昭和初め)から婦人雑誌や実用書のなかに、女性洋装下着についてのさまざまな助言が現れはじめる。そのなかで女性たちがもっとも躊躇したのはブラジャーだったようだ。乳房の貧弱さを気にする習慣はわが国にはなかったので、大きすぎる乳房の扱いに悩み、「丈余の包帯で幾重にも幾重にも息の詰まる程乳房の上を巻きしめ(……)」(マリー・ルイズ【婦人倶楽部】1925/6月)という人もあった。ブラジャーへの認識がひろまったのは関東大震災後だったようで、震災直後の婦人雑誌のなかに、つぎのようなやりとりがある。 (Q)洋服の下に乳おさえというものを用いるという事が八月号に出て居りましたが、何処で売っておりますか ブラジャーに対してだれもが違和感をもたなくなるのは、第二次大戦後を待たねばならなかった(〈1920年代の婦人の洋装下着〉→年表〈現況〉1925年3月 マリー・ルイズ「洋装をなさる方々へ」【婦人世界】1925/3月)(〈1930年代前半期のブラジャー〉→年表〈現況〉1935x月 「冬も洋服をつづける工夫」【婦人画報】1932/11月;吉田不二子「夏肥りと着付け」【すがた】1935/6月)。 (大丸 弘) |