近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 406
タイトル 縞/小紋
解説

近代和服の文様は、江戸時代から受けついだ大きな遺産へのコンプレックスに支配された。江戸時代の人々が、仄暗い座敷での起ち居から育んだのは、微視的で皮肉な小紋と、際限のない変化を愛する趣味ゆたかな縞物だった。

小紋のなかでももっとも小紋的な霰(あられ)小紋は、武士たちの正装の裃に用いられた。縞物はあそび心のある派手やかさも、地味なもの堅さももちうる柄だ。大柄の弁慶縞のどてらや半纏は、男女ともに愛用していた下町趣味。日本各地から地染めの太物(木綿織物)として織りだされる中くらいの太さの竪縞は、お店(たな)者の仕着せとして定着していた。ただし職人や小商いの階層の江戸っ児の多くは、縞柄のほとんど目立たない藍微塵とか、盲縞(めくらじま)のような柄を好んだ。

幕末に日本を訪れた外国人は日本人が男も女も黒っぽいもので身をつつみ、若い女性でもそれは例外でないという印象を書き残している。それに対して幼い子どもたちの着ているものは思いきって派手な色合いだと。

維新のあと急激に衰えたのは小紋柄だった。小紋は明治時代に入ると堅牢な合成染料をもちい、技術的には向上するのだが、武士階級という大きな需要家を失ったうえ、高価なわりにあまり見ばえのしないためもあってか、大衆の好みが向かなかったのだろう。小紋は武士たちがそれを式服に用いたことでもわかるように、上品な、また知的な趣味のものでもあるから、無地に次ぐものとして縞ものの上位におかれた。

1880年代(ほぼ明治10年代)に入ると小紋にようやく復活のときがめぐってきて、そののち1890年代(ほぼ明治20年代)には、礼装の裾模様に、無地ではなく小紋を用いるということもおこなわれるようになった。

しかしなぜかその流行は長続きせず、1911(明治44)年には三越の担当者がこんなことを言っている。「従来は小紋縮緬というのが非常に流行いたしておりまして、一寸した儀式の場合はみな小紋縮緬をお用いになったのでござりますれば、此の節ではこの小紋縮緬と申すものが全く閑却されてしまいまして、これに代わるものが即ち御召の縫模様なのでございます」(「流行―御召の縫模様」【婦人クラブ】1911/5月)。

色柄の流行が二転三転するのはしかたがないとして、もともと小紋は安いものではないし、またその柄のもつ本質的な印象からいっても、どちらかというと年配者むきのもののようだ。近代の後期(大正・昭和前期)になると、新聞挿絵でも年輩の婦人の着るものに小紋柄を見ることが多いが、そうまでいわないでも、趣味的な女羽織としての需要をひろげることになる。

徒弟制度やさまざまな古い商家のしきたりが淘汰されるなかで、縞の着物は商人のお仕着せという、印象的な用途を失ってゆく。関東大震災をすぎるころには、おおきな商家は会社組織になって、番頭さんたちは背広姿で出勤し、また、むかしは仕立て下ろしの縞のお仕着せに千草の股引姿でごった返した藪入りの日の盛り場や、閻魔様にも、そんな恰好の小僧さんたちはめっきり少なくなる。小僧と見られるのがいや、というのがその理由だった(→年表〈現況〉1930年7月 「藪入りの小僧さん」朝日新聞 1930/7/16: 2)、

縞や格子は先染めの文様としてはもっとも自然で、また織り手の工夫とたのしみの余地の大きい柄だ。江戸時代に仕着せとして使われたのは、松阪木綿とか石田縞という土地々々の名のついた、丈夫で素朴な木綿縞だった。近代になって消費者の需要が高級化し、たいていの女性が御召の2、3枚は持ち、銘仙をふだん着にする時代になっても、基本的には縞柄が多かった。もっともその縞御召や銘仙縞の縞柄は、かつてのように縞そのものを愛するというのでなく、地紋として目立たない使われ方をすることも多くなる。

一方、外国人が注目したような多色の具象染模様は、一般には友禅柄といわれるものだろう。明治時代に入ってもまだ、そういう染呉服は京都が本場だったし、京都以外の染呉服は地染めといって、一段低くみられていた。織物の場合も同様で、波はあったにしても通観してみれば、桐生など北関東の新興産地の賢明な追いあげにもかかわらず、西陣の声価のゆらぐことはなかった。

近代の染織文様のひとつの特色は、モチーフの古典化といえる。古典化の現象はわが国が近代化する経過のなかで、日常生活での需要や必要から遠ざかってゆくものが、古典化によって自己保存を図ることから生じる。古典化の具体的様相は、もちろんそれぞれの事情によって一様でないが。

1920年代(大正末~昭和初め)に入るころから、和装はだんだんと「学びごと」あるいは、「教えごと」になりはじめる。自分の国の貴重な伝統を大事にしましょうという教訓から、たまたまその時代にできあがっていた和装の条件の多くを、古典として尊重する姿勢が擦りこまれた。文様の多くもその枠のなかにとりこまれていた。

染織の場合は、生産地がそれを後押しした、という事情があるかもしれない。近代日本の染織文様には、その生産地と生産組織自体が京都、という、また西陣、堀川、室町という権威がつよすぎ、その動かしがたいものの、自己保存の意志がつよく働いていたといえないだろうか。この土地で繰り返される言葉は、新しいものをいくら工夫しても、やっぱり古くからのものにはかないまへんナ、のひとことだ。そして相変わらず御所車と、観世水と、青海波を、宇野千代が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と言った色調で生産しながら、大衆がほんとうに求めているものから離れてゆく。

(大丸 弘)