近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 414
タイトル 男性洋服一般
解説

男の洋服は、警察官と官員さんたちによって広まった。もちろんそれに異人さんたちや軍人もはいるが、こういった連中は街中で、そうそう一般市民たちの眼にふれることはなかったろう。

すでに1870(明治3)年という早い時期に、法令によって洋服型の「制服」が制定された(→年表〈事件〉1870年11月 「洋服型の制服」【太政官布】第800 1870/11/5)。まだ官職制度も定まっていない状態だったから、衣冠の代わりをなすとか、無位非役までの士族まで着用を許すとか、かなり後ろむきの文言があり、その実効性も疑わしい。

官吏の洋服登庁が本格化するのは1880年代(ほぼ明治10年代)に入ってからで、とりわけ鹿鳴館時代といわれる1885、1886(明治18、19)年だった。洋服登庁の指示は、制服の規程がある陸海軍省のほかは、各省ごとの口達なので、信用できる記録が少ないが、新聞報道によると、同時期に地方の自治体でもおなじ動きがあったようだ。

石川県では、県庁吏員の判任官以上、裁判所郡役所の月報12円以上の者には、洋服での出勤を定める。
(→年表〈事件〉1885年5月 「石川県では……」時事新報 1885/5/5: 2)

洋服着用規程は、石川県の場合にみるように、身分の重いものによりきびしく課せられる。身分の重いものほど外部への体面が必要だからだが、あわせて、わずかな報酬しか得ていない連中の、洋服調達のための負担を考慮したにちがいない。警視庁では下級の給仕にいたるまで洋服、という規程をいったんつくり、しばらくしてから、「今後は月給十円以下の者は日本服を着するも苦しからざるよし」という達しを出したのもこの辺の事情だろう(→年表〈事件〉1880年10月 「給仕の洋服」東京日日新聞 1880/10/27: 2)

大審院が、訴訟のため出廷する人の着服制限をしたのは1883(明治16)年だった。それによると士族は羽織袴、平民は羽織、もしくは袴とし、洋服は勝手次第、となっている。洋服の種類も着方も問うことはせず、洋服でさえあれば礼装なみだった。 和服より、洋服を着ている人の方が格が上、というその時代の通念には、根拠があったのだ。

1890年代までの、つまり明治中期までの上・中級官吏の登庁服は、原則としてフロックコートだった。そのほかに、下級官吏や学校の教職員の多くも時の流れにしたがっているし、大阪砲兵工廠の職工が1885(明治18)年には小倉織の洋服を給与されているなど、洋服は社会のいろいろな方面に浸透しはじめていた。

こういった人たちのすべてがまさかフロックコートでもないが、背広型の洋服が一般にひろがるのは1900(明治33)年以後とみられる。1900年以前の庶民的洋服のかなり大きなパーセントは、当時達磨(だるま)服といわれた、立襟で前がふさがり、胸もとまでボタンがけの服だったろう。胸もとのこの構造は、首巻きなしでも襟元の防寒にも、頸の保護にも役だつので、鉄道員など現業の職員にはひろくゆきわたった。わが国では軍服以上に、それをまねた学生服の詰襟服として定着したが、明治時代にはもうすこしひろい範囲に愛用されていた。

洋服の普及に関して、記憶すべきことがいくつかある。たとえば1872(明治5)年に京都東山のある寺から、仏教法要以外では僧侶も洋服を着ることを許されるかどうかの伺いがあり、京都府は勝手たるべしと回答した。するとその翌月、僧侶10名と神職10名が教法講究のため教部省に出仕したが、全員洋服だったという。

東京築地の新富座が新装開場した1878(明治11)年6月7日、招待した政府高官を木戸口にならんで出迎えた劇場関係者は、市川團十郎、尾上菊五郎はじめ、すべて洋服すがただった(→年表〈事件〉1878年6月 「新富座、新装開場」『歌舞伎年表』)。

1887(明治20)年に地方巡遊の明治天皇が京都駅に着いたとき、出迎えの本派本願寺法主大谷光尊が洋服すがたであったのを、新聞は「古今未曾有」と書いている。

洋服は近代の日本ではビジネス社会の制服であり、入場券だった。明治時代の男性洋服――フロックコートは、社会の上層身分への入場券だったが、1910年代以降(ほぼ大正前半期)、背広が一般化した時代になると、和服ではもはやビジネス社会そのものへの入場がむずかしくなってきた。[都新聞]で主に花柳演芸欄を担当してきた、小説家でもある平山蘆江が、1930(昭和5)年に都新聞社を退社せざるを得なくなったのは、彼が洋服出勤を拒否したため、という説がある。たとえ通人の蘆江であっても、着流しで微醺を帯びて出社し、原稿を書きとばすと車を駆って狭斜の巷へ――という時代ではもうなくなっていたのだ。ビジネス社会と洋服との関係は、女性の職業進出についても相関を暗示している。

洋服が一種の制服であり、記号的な入場券の意味がつよいとすると、日本人にとっての洋服は、なによりもその記号性の理解が先行しなければならない。他の多くの外来文化の領域とおなじように、学んで、覚えて、守る――という努力の対象だった。1908(明治41)年のある観察者が指摘する、日本人の洋服すがたの欠点から引用しよう。

・袖短きこと ・背広の丈の短き故貧相に見ゆること ・袖付けと肩の間に斜めに大皺を表すこと ・出来合服のくせに普通の位置にボタンを附けるようにする故、前や襟の合わぬこと ・何となく服が借り物の様に見ゆること ・前に屈し立つこと ・小足に腰を後につき出し歩むこと ・カラーの汚れたるを用いること ・ズボンが短いこと
(【流行】(白木屋) 1908/2月)

かつてのあの、友禅の長襦袢のうえに結城紬を襲ね、博多の帯を締めた、日本橋の大店の主人や番頭の心懸けたようなセックスアピール(sex appeal)を、洋服すがたのうえで体現しようとする男は、その時代ごく少なかったようだ。

洋服着用者が学んでおくべきだったことのひとつは、テーラリング・テクニックのつくる美しさだったろう。明治・大正期の「成功者」たちの遺影を数多く見て驚くのは、彼らのほとんどが、いかにシワシワの洋服を着て、反り返っているかということだ。

1932(昭和7)年、東京神田駿河台下に「洋服の化粧院」が開業している。洋服の短時間プレスが営業内容で、「型の崩れたミットモない服着る男を根絶(……)」が目的という(朝日新聞 1932/10/7: 7)。欠落している大切なものに着目して、それを補おうという努力は、けっしてないわけではなかった。

(大丸 弘)