| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 417 |
| タイトル | フィット |
| 解説 | 1908(明治41)年のある流行誌は、日本人の洋服の欠点として、袖が短いこと、カフスを現すこと、ズボンが短いこと、背広が短いため貧相に見えること、等をあげている(【流行】(白木屋) 1908/1月)。要するに、身体にあっていない、ということだ。 明治の末というこの時代は、男子の洋服というと、フロックコート、モーニングが、背広と対等の存在だった。もちろん洋服を着るような立場、ないし職業の人の場合だが、「今日は僻地寒村の村長も、郡役所の書記も(……)背広の洋服も入用なれば、フロックコートも通常礼服も備え置かざるべからず、(……)」といわれていた。ここで通常礼服というのはモーニングをさしている(→年表〈現況〉1899年5月 「現代人の贅沢さ」朝日新聞 1899/5/13: 3)。 彼らの洋服すがたの写真を見て、だれもが気づくのは、正装しているときであっても、衣服が身体にフィットしていないことから生ずる、ヨレヨレの皺の目立つことだ。 洋服になれはじめた時期の日本人は、洋服は窮屈なもの、と受けとっていた。ズボンを窮屈袋とよんでいたのもその現れだ。女性のコルセットの知識も頭にあったろう。そしてそれはしかたのないものとあきらめ、仕事の重荷と重ねあわせていたのかもしれない。だから家に帰って帽子とスーツと靴下をぬぎ、ネクタイをとると、仕事とスーツからの開放感が、くつろぎ着の和服のよさを、いつまでも実感させつづけた。 洋服を窮屈と感じたのは、単純にいえば身体にあわない洋服を着ていたためだ。1910年代頃(ほぼ大正前半期)までの日本人の多くは、背広はオーダーでつくるか、古着を利用するかだった。大都市であっても、洋服の仕立屋の多くはまだ未熟だった。丹念に採寸して裁断、縫製すればするほど、腕が上がりにくくなったりする。それでも洋服とは、そういうものだと信じられていた。欧米人の体型にもとづく原型が、ほとんど鵜呑みのままの時代だった。 日本人の背広の着方の特色として指摘されるのは、ボタンをかけたがらないことだ。背広をマントのように肩にかけて――フウテンの虎さん式に――着るのもおなじ。ひとつには日本の風土にもよるが、からだに、第二の皮膚のようにぴったり添った、スーツの美しさを理解するのは、まだ遠い先のことだった。 からだにぴったり、ということに関しては、大きな誤解があった。よくフィットしているスーツは、なんの窮屈さも感じさせない。それはその点でもうすこし単純な、靴のことを考えれば理解できる。よい靴は足にピッタリして、それでいて靴ずれをつくるような摩擦を生じない。よくフィットしているスーツはからだの形ばかりでなく、動きにも添うのだ。そういうフィットをロンドンのテーラーは、ウエストエンド・フィット(westend fit)という。ウエストエンドはロンドンの中心街であり、トップ・テーラー(top tailor)の集まっている通り“セヴィル・ロウ”もそこにある。それに対してからだにいかにも窮屈にぴったりした服を、シティ・フィット(city fit)とよんで、シティの銀行屋のビジネススーツ風という。日本人好みのゆったりめの仕立ては、カントリー・フィット(country fit)とよんで、それはカジュアル服になる。むだ皺を許すのは、比較的値段の安いカジュアル服だけだ。 震災前に東京銀座の近くに、アメリカ製の最新プレス機を据えつけて、着ている洋服を30分、80銭でプレスする店ができた。「型の正しいズボン、筋目のキッチリとした洋服は紳士のおたしなみです」(→年表〈現況〉1921年4月 「洋服のプレスの宣伝」読売新聞 1921/4/23: 4)という宣伝だったが、残念ながら繁昌したかどうかはわからない。 第一次大戦後、アメリカの既製服の影響が日本にも及んでくる。1920年代(大正末~昭和初め)の世界的風潮は、男も女も、スーツやドレスのままで、動きの激しいチャールストンもフォック・ストロットも踊れるような、ウエストのゆるいボックス・スタイルだった。このアメリカンスタイルは、リリアン・ギッシュやクララ・ボウの映画と一緒にわが国に流れ込んだ。第二次大戦後もかなり時間が経過してから、ピエール・カルダンの欧州風シルエットが入ってくるまで、日本のスーツが、ウエストのゆるいアメリカンスタイルを基本としていたことは、日本の男性にとって幸せだった。 1931(昭和6)年8月、東京羅紗既製品卸商組合、東京婦人子供服製造卸商組合等の洋服関連業界が結束して、既製洋服の標準寸法を制定した(→年表〈事件〉1931年8月 「既製服の標準寸法制定」)。この時期はまた、日本の毛織物産業の水準が、舶来に負けないような製品を提供できる段階に達したときでもあった。フィットの点でもそう不満のない既製のスーツが、手ごろの値段で、百貨店の売り場に吊るされるようになったのは、サラリーマンにとっての大きな福音だった。この時代をリードしていた評論家はこう言っている。 背広は誂えでなければという、今までの贅沢な観念をまず捨ててください。欧米でも自分の身体に合わせて服をつくるということは、相当の紳士になってからやることで、大部分のひとはレディー・メードです。それに日本の洋服屋さんで、本当に身体にあった洋服を作れる人はごく僅かです。 今までの贅沢な考え、という句にも窺えるように、背広にとっても暗い時代が、目の前に迫っている。1938(昭和13)年は、日中戦争がすでに2年目に入り、街には詰襟の軍服がめだつようになっていた。非常時ということばが、なにかにつけて先行した。 「背広服はカラー、ネクタイで首を締めつけ保健上面白くなく、また日本の気候にも合わない」(→年表〈事件〉1939年1月 「国民精神中央連盟の服装に関する委員会」朝日新聞 1939/1/20: 6)、「ワイシャツの洗濯だけでも大変、ネクタイに使う労力や材料を、ほかに回した方がいい」(→年表〈現況〉1943年8月 「座談会―揃って戦衣へ(上) 背広も断然禁止せよ ネクタイより修繕用の糸を」朝日新聞 1943/8/9: 2;→年表〈現況〉1943年8月 「座談会―揃って戦衣へ(下) “袖”切って“角”を矯めず 総合的な衣の新秩序までゆけ」朝日新聞 1943/8/10: 3)、などなど、世の中は国民服の方向に眼を注いでいた。 しかしその一方で、女性のスーツが目立ちはじめてもいた。これに対しては、生理上の疑問を呈する医師もあったが。 (大丸 弘) |