| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 402 |
| タイトル | きものの柄 |
| 解説 | 和服の柄のなかでもっとも特色のあるのは友禅柄かもしれない。ここで特色というのは、美しいとか、誇るにたる、という意味でではない。 博覧会の二号館を子供と一緒にある日見て歩いた。(……)織物の方では色々の贅沢な模様ものが封建時代の花見衣のように掛連ねてあるのを見た。ぼくはこの模様ものの衣裳が大嫌いだ。縮緬などの薄っぺらな織物は模様でもなければ引き立たないのだろうが、それにしても肩まで模様の散らかったものを陳列なら兎も角大道を着て歩くのは低能に近い。現代の衣裳の趣味は、以前の東京人の渋い趣味などから見ると、未開国の方に後戻りしている。 銀座に限らず、若い人達の風俗が世界無比に華美であるように言われています。ほんとうに、日本の若い女の人達は、それほどまでに華美でしょうか。(……)それはただ単に、若い人達の着ている和服が(洋服には不思議にそんなものは見当たりません)、和服の色彩が、生で、毒々しくて、大ゲサで、けばけばしい、ただそれだけの理由だと思います。(→年表〈現況〉1940年9月 宇野千代 「奢侈品がなければ女は美しくなれないか」【スタイル】1940/9月) 幕末にはじめて日本の地を踏んだ欧米人が、人々の着ているものがほとんど紺一色のように暗いのに対して、少女だけは、パッと花の咲いたような赤い花柄のきものを着ていた、と観察している。赤い花柄がべつに友禅にかぎっているわけではないが、複雑な半具象模様にたくさんの色をつめこむのは、西陣や京友禅の伝統だ。たしかに、たいていの女の子はそういう柄を無邪気によろこぶ。その願望が明治後期から大正にかけての、安物のモスリン友禅人気を支えたのだ。そしてまた昭和戦前のあの、鏑木清方が長襦袢と区別がつかないと言ったきもの柄にも結びつく(→年表〈現況〉1936年3月 「どこまで行くか女の派手好み」東京日日新聞 1936/3/20: 8;→年表〈現況〉1937年3月 「キモノの新しい雰囲気」東京日日新聞 1937/3/19: 14)。宇野千代はくり返しそれを、おもちゃ箱をひっくり返したようなとか、布団柄のようなとかいって軽蔑した。 毒々しく、大ゲサで、けばけばしい、おもちゃ箱をひっくり返したような和服の柄に対する批判は、率直にものを見る眼をもつ人からは、よくきかされる。明治の生活文化に詳しい内田魯庵は、なぜそうなったかの理由として、いままで織物はモチのいいのを第一とし、糸の目方が第二、ガラの如きは三番目四番目の問題としていたため、と断じている。 ガラの如きは極めてパッとしたものや、十篇一律の有り来たりを喜んで、いわゆる変わり柄は温和しくないとか、人を見るとかいって嫌う傾きがあった(……)、そういう自覚心より、ガラに対する鑑賞力が極めて幼稚だったのである。(内田魯庵「最近三四十年の女の風俗」【婦人画報】1922/9月) 和装柄のすべてが秋声や千代、あるいは魯庵の嫌うようなものではないし、彼らもそうは思っていないだろう。いわゆる小紋や縞、またそれらを地紋風に置いた御召や絣、あるいは大島や結城の紬類の柄には、上品でしかも粋であるとか、派手でいてしかも大人びた雅のあるもの、地味そうでいて華やかさを秘めているものなど、それを身にまとう人の面影が偲べるようなきものや帯との出会いも、われわれはしばしば経験する。 子ども物や若い娘の振袖を除いて、近代のきもの柄のうち、大仰なものは式服の裾模様だろう。かつて、膝を揃えて青畳に座った女性の返し褄にも、摺足で歩く女性の控え目な蹴出し褄にも、褄模様はじゅうぶん華やかだった。ただし裾模様はもともと、幕府の規制から生まれたものであり、清方が派手なものの例に挙げた長襦袢におきまりの、「燃えたつような緋縮緬」と、おなじ素性のものだ。 そんな幕府の統制とは縁のない明治の御代になってまで、いや昭和の戦後になってもまだ、礼装といえば黒の白襟、裾模様と、自縄自縛にこだわりつづけた精神が、染織デザインの自由な発想を枯渇させた。 女性も立ちすがたで人に接する機会がふえたことから、褄だけだった模様がだんだん上にひろがりはじめ、膝のあたりまでだった江戸褄が帯下までにおよぶ島原模様や、背面全体にかかるうしろ掛かりの江戸褄が現れる。それを夜会模様とか、園遊会模様といった。模様がひろがっても礼服であるかぎりは、全体はあいかわらず黒地の定紋つきだ。芸者のお座敷着――出の衣裳も礼装である以上は、おなじだった。華やかな宴席に、ときにはずいぶん猥雑な場面もあるのに、芸者たちがいつもそんな窮屈な恰好でサービスしていたとは、考えてみればふしぎな話だ。 1900年代(ほぼ明治30年代)に訪問着があらわれはじめたとき、「縞物では失礼だが、さりとて礼服でもあまり角立つといったような時、小紋代わりの無地ものが流行いたします(……)」といった説明もあった。気のおけない会合や、観劇や、百貨店でのお買いものに――、という宣伝コピーもあった。しばらくするとそれよりもうすこし気楽な、つまり訪問着とふだん着の中間のような第二訪問着などというものの必要が、婦人雑誌などで論じられた。 しかし逆に、訪問着よりもっと大胆で、礼装なみかそれ以上の費用をかけて、しかし白襟黒紋付の枠に縛られない超訪問着、洋装でいうならオフ・ショルダーのイヴニングドレス――そういうものもあってもよかったはずだ。それが生まれれば、江戸時代の幽霊のような白襟黒紋付と、はっきり決別するチャンスだったのだ。しかし有職模様や御所車のほかには、なにも思いつかず、やっぱり伝統柄がいちばんだんナー、をくりかえす業者からも、きまりごとや格式の重みばかりをオウムのようにくりかえす「専門家」からも、未来をさし示すようなアイディアはなにひとつうまれなかった。昭和戦前期の盛り場にあふれていた、「おもちゃ箱をひっくり返したような」、「布団柄のような」衣裳は、そのみじめな失敗作だったのかもしれない。 その時代にいちばん大胆な柄行きがゆるされていた浴衣、羽織、長襦袢には、絵羽や付下げ、切継といった仕立の技巧がほどこされていた。訪問着に絵羽仕立が現れたのは、1935年以後(昭和10年代)だった。けれどもかつて三越の日比翁助専務が嘆いたように(→年表〈現況〉1903年3月 「服装の意匠」 国民新聞 1903/3/6: 3)、この国には、大胆なトップファッションを競いあうような、はなやかな社交の晴舞台がないのだ。だからそんな超訪問着は、何十年かのちに、銀座裏の高級バーの女性たちによって、いくぶん変わった情景のなかで実現されるまでの、長い時間が必要だった。 徳田秋声も言っているように、かつての東京人の渋い趣味のなかのあるものは死んだかもしれないが、世の中が落ちつくにつれ甦ったものもある。小紋の嗜好もそのひとつだろう。小紋柄を支えていたのは主として武士の服装だったから、維新後の長いこと逼塞してしまっていたのはむりもなかった。それがようやく1880年代半ば(明治10年代)になって、こんな新聞記事があらわれた。 二三年前より東京ハデ社会にては衣服の流行が昔に戻り小紋形の着物が粋だとか高等だとかにて流行する様子なりしが近頃はいよいよ流行の本色を現しお嬢様もおさんどんも縮緬と木綿の区別なく着物はすべて小紋形に限るという傾向あり。(「小紋の流行」時事新報 1885/8/6: 1) その後も人気不人気の波はあったが、やや年のいった女性向きの上品な柄として、ときには裾模様をつけて、略礼装にも用いられた。 縞と絣は、基本的には好き嫌いの少ないものだ。縞はどんな素朴な手織木綿にもあるが、また古渡り唐桟などになると、錦よりも高価な趣味の品になる。近代を通じてもっとも好まれた絹着尺の代表である御召は、柄ゆきとしてはほとんどが縞物で、それは大衆着尺の代表、銘仙もかわりない。 1900年代(明治33年)以後になると、織元の競争も激しくなれば消費者の目も肥え、たとえば銘仙だからといって、一目見れば産地がわかるようなものでなく、ときにはタッグを取ってしまうと呉服屋の番頭さえ迷うような新製品や、いわゆる珍柄が多くなる。 色、柄の多様化、向上を推し進めたのは、ひとつには大呉服店、1910年代以後(大正~)の大百貨店の販売促進の努力だった。小売店のキャンペーンのなかでも有名なのは、1905(明治37)年前後の三越呉服店による元禄模様だ。三越は巖谷小波を座長とした流行会を組織して、宣伝パンフレットの【時好】、【三越タイムス】等によって盛んに宣伝したから、明治の末の元禄風好みは、呉服商品の枠を越えた知名度を勝ち得ていた。それとくらべると三越の三彩会、高島屋の新柄流行百選会といった創作染織作品展示会は、巨視的にはそれほど大きな大衆への影響力はもたなかったろう。 (大丸 弘) |