近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 415
タイトル ネクタイとカラー
解説

男性ジャケットの襟もとが、われわれがいま見なれているスタイルにほぼ定着したのは、1930年代(昭和前半期)に入ってからのことらしい。明治時代のカラーは堅い立襟のハイカラーがふつうで、カラーだけとりはずして洗濯できるようになっていた。ハイカラの語源がここにあるだけに、気どった人間はむりをして、外国人にくらべると猪首の日本人には不似合いな、高いカラーをつけたようだ。

1910年代(ほぼ大正前半期)になるころには、大部分の勤め人がふだんに着るワイシャツは、シンプルな折襟のいわゆるレギュラー・カラーになって、取り外しはできないのがふつうになる。その襟の合わせ目、一番上のボタンのあたりに結びめのあるネクタイをしめる。ネクタイの生地は厚地で、硬めなので、長短2枚の大きな短冊を胸元にブラさげたように見える。

カラーとタイの歴史からいえば、これはその最後の、消滅まぎわの、もっとも単純化、あるいは形式化したすがた。さらに単純化した方法としては、短冊状の織物の代わりに1本の紐で襟もとをしめるループ・タイというのもあるし、ピンでちょっととりつける蝶ネクタイというものもある。ただし堅気の勤め人の日常用としては、このふたつはめったに見られない。

戦前の堅気の勤め人はこれに中折帽をかぶるのがふつうだった。日米戦争に入ると、中折帽が戦闘帽に変わってゆくが、けっこう費用のかかる国民服の普及は緩慢だったから、ほとんどの事務職のサラリーマンの、スーツすがたに変わりはなく、ネクタイはやはり必需品だった。

ネクタイが男性の装いにとって大切なものになったのは、サラリーマン社会での背広型スーツの定着のせいだ。燕尾服はもちろん、フロックコートやモーニングコートには、タイの個人的な好みというものは乏しい。むしろ燕尾服には白の、フロックコートやタキシードには黒の蝶ネクタイという、かたくなな規定をまちがえないようにする常識の方が大事だった。

1900年代(ほぼ明治30年代)以後の日本はすでに背広社会だったが、ほとんどのサラリーマン男性は、家に帰れば和服に着替えていた。1920、1930年代(昭和戦前期)にサラリーマン生活を送った男性のすべては明治生まれで、一部の学生以外、青年時代までのほとんどの時間は、ゆったりとした襟もとの和服で身をつつんでいた。開化のころ、西洋人のはくズボンをさして窮屈袋とよんだけれども、1920、1930年代のサラリーマン男性にとって、半日カラーとネクタイでしめあげている胸もとの窮屈さは、それが宮仕えというものの、身体的感覚だったともいえよう。

スーツにネクタイのサラリーマンスタイルがほぼ定着した1931(昭和6)年に、すでにこんな記事が現れている。

この頃日本でも男子服装の単純化が問題にされて、しきりと無帽主義、無ネクタイ、ワイド・シャツ(ゆるやかなシャツ)、ショート(短ずぼん)を着用することの、保健上いかに有効であるかを力説し、既に(……)服装単純化に関する各様のクラブを組織(……)。
(→年表〈現況〉1931年10月 「男服にも単純化運動」都新聞 1931/10/2 :9)

もちろんこの主張はその時代、イギリスに起こったラショナル・ドレス・ムーブメント(rational dress movement)に追随したものであることは明らかだ。おそらくこの流れを受けて、報知新聞社は1931年に開襟シャツキャンペーンをたちあげている(→年表〈事件〉1931年7月 「夏の開襟シャツ推進キャンペーン」報知新聞 1931/7/1: 9)。

日本人がノー・ネクタイに、より本腰をいれだしたのは、戦争の影がこの国を覆いはじめたころだった。背広に代わる国民服を模索する具体的な理由のなかにも、首に窮屈なネクタイ、洗濯の手間のかかるワイシャツの排除が含まれていた。

われわれが一番気持ちよくて、能率的に働ける条件は、シャツと皮膚のあいだの温度が三二度、湿度が五○パーセントのときですが、ネクタイを締めますと空気の流通がなくなって、温度は著しく上がって体温以上になり、堪えられなくなります。洋服やネクタイが習慣になっている国は、夏でもネクタイをしめてさして暑くもない国々なのです。わが国の風土気候から言って、ノー・ネクタイは衛生的であり、能率的であり、これを礼を失すると考えるのはどうかと思います。
(→年表〈現況〉1939年7月 入鹿山博士(厚生省保健課)「ノー・ネクタイの弁」朝日新聞 1939/7/3: 6)

大きな短冊をぶらさげ式の、形式化した、末期現象のネクタイだからこそこんなそしりを受ける。ネクタイがまだ生き生きしていた時代だったら、厚生省の医者の見かたもすこし変わったろう。

ネクタイはもともとスカーフの一種ということもでき、女学生がセーラー服の襟元に結ぶタイも同種のもの。女学生の制服のタイは色がきめられているのだか、微妙な好みの色合いをだすために、こっそり高価な紅茶で上染めしたりする少女もあった。タイは顔と着ているものとをつなぐ点では、和装の女性があれほど執着した半襟にちかいポイントになる。一部の若い男性の間で、1920(大正9)年前後に流行したゆるやかなボヘミアン・タイは、セーラー服のタイにちかいものだ。永井荷風や萩原朔太郎、鈴木三重吉など、洋行帰りの文人、詩人たちのイメージがそれにむすびつく。

ただし、カラーとタイの組み合わせは、7月でもコートを着ている人がいるようなヨーロッパの風土が前提になっている、といいう指摘は正しい。19世紀半ばのイギリスの、ディッケンズの時代の紳士を見れば、耳にかぶさりそうなハイカラーで襟もとをくるみ、大きな結びめのスカーフをその上に巻きつけている。ひとつには、頚のかなり長いことも、この種のカラーが見てくれのよい条件だろう。世紀末になってハイカラーが流行おくれになったことは、気候の違い以上に日本人にとって幸いだった。

(大丸 弘)