近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 405
タイトル 大島紬
解説

真綿、つまり絹綿から指先で揉んで糸を撚りだし、その糸で織った絹布が紬(つむぎ)だ。この方法は羊毛から糸をつむぐ方法とおなじ。ふつうの絹糸は繭をお湯のなかに入れ、一本の糸を端からひきだす。

紬糸の生産量が多くないうえ、最終段階まで手作業の部分が多いため高価なものにならざるをえない。奄美大島のようにもともと養蚕地でない土地の場合、ほかから原糸を買い入れる場合もあるが、中間の作業はむかしと変わらない手仕事だから、生産量はやはり多くなく、高価であることに変わりはない。

大島紬や結城紬が着尺としてすぐれている点は多々あるが、特色の第一は高価、ということだともいえる。

菊池寛が1917(大正6)年に書いた「大島が出来る話」は、そのきめつけになっている。このものがたりの主人公は貧しくて、学生時代はニコニコ絣などを着ていたという。ニコニコ絣というのは染め絣のことで、1910年代(明治末~大正初め)という、中学生であれ大学生であれ、学生といえば絣を着ていた時代でも、いちばんの安物だった。そんな男が就職し、結婚して、子どももできて、つぎの目標は大島絣の対(つい)――羽織と着物の揃い―を手に入れることだった。

「男には大島が一番よく似合ってよ。貴方も、是非大島をお買いなさい、それも片々じゃ駄目だわ。どうしても羽織と、着物とを揃えなけりゃ。(……)男は大島にかぎるわ」と、夫の身なりにはひと一倍気づかいをする妻が熱心に主張する。着物と羽織を対にして、つまりおなじ反物で仕立てるには一疋が必要だ。この作品ではそれが60円以上としている。「それじゃあ大島貯金でもするかな」と、夫は冗談を言う――。

大島紬はやわらかく、着心地よく、丈夫であまりシワにならないうえ、その柄や色調のうえで、ひとの好みがあまりちがわない、という点もひろく好まれた理由だったようだ。作家の村松梢風はこんなことを言っている。

大島紬は織り絣で、色気もほぼ一定している。選択といったところで、品の高下は別として、絣の大小と一寸した形の相違位のものだ。先ず大同小異だ。此の選択の簡易なことが、大島紬の流行を導いた大きな原因であると私は考える。簡易ということは現代人の生活に必須の要件である。(……)大島紬だと柄や色気の見立てに精魂を費やす世話がないから、ついそれに手が出るのだ、是が流行の端になる。そして今日の如く、商人でも官吏でも、請負師でも文士でも、芸人でも会社員でも、或いは奥さんでも令嬢でも芸者でも看護婦でも、猫でも杓子でも、見境も糸瓜もなく、大島紬を着るようになったのだ。せっかく大金を投じて買った物をくさしては気の毒だが、由来選択の簡易なものに碌なものはない。大島紬は丈夫で高尚だからふだん着に着るという人は別だが、一張羅のよそいきにして、帰ってくるが否や皺をのばして箪笥の抽斗へ入れて置く着物としては、余り栄えないものである。
(村松梢風『屋上の鴉』1924)

大島紬の人気にも波の高低があったらしく、最近流行していると言っているデータも1890年代から1920年代(明治20年代~昭和初め)にかけてかなり多い。そのなかでもっとも古いもののひとつは、1892(明治25)年のつぎのような記事だろう。

紬の大王は大島紬なり。旧時は東京にて贅沢者流のほかは琉球紬あるを知りて大島紬あるを知らぬ者多かりし。琉球紬は昔より極高の物として人に愛重せられ、やがては米沢にて之に模したる「米沢琉球」通称米琉なる織物之に代用されたりしが、現今にては真の琉球紬と称する織物は其の品少なく、大島紬の名称は紳士社会に甚だしく鳴り渡れり。
(「紬の全盛時代」【都の華】43号 1901/3/21)

鹿児島県産の大島紬が、もともとは琉球紬の代替品だったことがうかがえる。またこの記事では、結城紬についてもつぎのように簡単に書き添えている。

結城つむぎ 関東にてはつむぎ界の大王と称せられ、昔より派手々々しからぬ衣服通に愛好され、着心地よく実用にも適いたる品と歌われしが、現今のは旧時の如き好き品の希になり行き、多く粗悪の品を出して信用全く地に墜ちたるは惜しむべし。
(同上)

そして価格については、大島紬の最上の絣が一反50円、結城紬は12、3円から24、5円まで、と言っている。この時点での結城紬の評価がまちがってはいなかったとしても、まったく一時的のものだったといえよう。土地土地の機業にも盛衰はあるものだ。大島紬にしてもまた、いつも安泰だったわけではない。

大島紬の流行り始めた事は夥しいものである。(……)大島紬の荒目の安物が比較的自由にできるようになった事がその理由であると想像される。
(平山蘆江「流行小言」都新聞 1917/12/3: 4)

村松梢風にくさされたように、大島紬の色も柄も、どれを見てもそう変わり映えのない、くすんだものだ。目の利かない人が見れば木綿きものとまちがわれる。模様の基本は絣であり、それに亀甲などの変わり柄、変わり色糸入りがわずかにある程度。

大島紬が好ましく、また高価だといっても、基本的にはふだん着だったから、TPOには注意が必要だった。新聞や雑誌の家庭欄、流行欄には、よくそれに関するQ&A を見かける。

大島紬は(……)当地(東京)の紳士社会にも、随分流行して居ります。又おなじ地質の書生羽織を着た、いわゆる三揃えと云う風も、能く見受けますが、元来略着のものですから、其の儘で晴れの場所へ出るのは、チト不映りかと思います。
(【流行】(流行社) 1900/4月)
(大丸 弘)