| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 420 |
| タイトル | シャツ |
| 解説 | シャツは開化期の浜ことばではチャツという言い方もあったらしいが、それは例外として、わりあい早く日本人に受けいれられたカタカナ名前だった。しかしそのわりには、名前と、もの自体とがむすびついていない。 明治のごく初期の、和裁洋裁の区別もなかった裁縫書のなかでも、おしまいの方の頁に、シャツとズボン下の解説の加えられているものがけっこうあって、このふたつはそれまでのきもの同様、その後長いあいだ、家庭の女性の手によって縫われていたものだろう。なかには脇線などが曲線裁ちのデザインもあり、とまどうひともあったにちがいない。 肌に接して着る衣服をふつう肌着といい、むずかしくは襯衣(しんい)と書くこともある。明治前半期ではこの襯衣に、「シャツ」というふりがなが振ってあったが、それまでの日本人は肌のすぐ上に襦袢を着ていた。そのため襦袢にシャツという振仮名のついていることも多い。襦袢は長着同様、前がY字の打合わせになっていても普通は衽(おくみ)もなく、丈の短いごく簡単な構造だ。シャツに襦袢のような襟をつけ、これをシャツ襦袢とか、襦袢兼用婦人シャツと呼んで、作り方を紹介している裁縫書もある。折衷服ということになるが一種の改良服ともいえる。Y字の打合わせへの日本人の執着はつよく、国民服や婦人標準服のデザインにまでつづく。 この時期の裁縫書で説明されているシャツは、すべて前立つきの前割れボタンがけ、カラーとカフスのある、今日のいわゆるワイシャツ式の構造である。一方、和服の下にさえ、そのタイプのシャツを着るのがあたり前だったらしいことが、この時期の絵画作品からたしかめられる。このことは、きもののすぐ下にはカラー、カフスつき西洋風シャツを着、肌着としては母親か妻の手縫いの昔風の襦袢を着ていたか、または外国人風に、カラーカフスつきのシャツを、肌着も兼ねて着ていたと考えるしかないだろう。 ワイシャツの下に肌着を重ねるのは間違っているとか、ダンディーでないという指摘はときおりあらわれている。正式には、上着の直ぐ下に着て、ネクタイの台の役割をもつものがシャツなのであり、保温等のためその下にもう1枚なにかを着こむとしても、それは単なるアンダーウエアで、シャツでとはちがう――ということになる。 一体にワイシャツの地が薄手になりましたので、アンダーウエアー(肌着)が必要とされています。これには汗をすいとってワイシャツにしみ出させないようなメリヤスの類、殊にクール等がいちばんよろしいとされています。 このようなテーラーの発言も、ワイシャツと肌着のメリヤスシャツの区別をはっきりさせてくれる。 ようやく20世紀に入るころの呉服店などの商品カタログには、 肌着のシャツには、メリヤスシャツという名が与えられている。それに対してほんらいのシャツは、だいたいホワイトシャツとよんでいるようだ。1906(明治39)年の【流行】(白木屋)に掲載された「商品価格一覧」ではつぎのような区分になっている(→年表〈現況〉1907年5月 「洋服並西洋小間物代価表」【流行】(白木屋) 1907/5月)。 ●ホワイトシャツ、カラー この区分の方法は、ホワイトシャツかならずしも白とはかぎらず、メリヤスシャツはかならずしもメリヤスではなくても、商品区分としては各商店とも共通してゆく。白木屋のカタログとほぼおなじ時期の三越の【時好】(1907/5月)では、理想的旅行の必要品として、「ホアイトシャッツ」と、「肌着のシャッツ、およびヅボン下」をあげている。そして1910年代(ほぼ大正前半期)に入ると、より言いやすい「ワイシャツ」という言い方がなされるようになる。その中間期には「ワイトシャツ」などという言い方もあった。また「本シャツ」とも言っている。 一方、肌着のシャツは下着用シャツとか、下シャツと呼んでいる。また夏シャツと呼ばれるものも、1887(明治20)年に、「近来年々需要を増す」と報道されていて、おそらく肌着用シャツに類するものと想像される。そのほか肉襦袢とよんでいる例もある(香蘭女史「肉襦袢の裁ち方」『裁縫之栞』1903)。やがて、単にシャツとさえいえばそれは肌着のシャツを指すのがふつうになっているらしいのが、1910(明治43)年のつぎの説明からうかがえる。 襯衣(シャツ)は元来洋服の肌着にして、わが国の襦袢の如きものなれども、近頃は一般に之を用うるの風習となりて、男女の別なく寒暑にかかわらず、広く之を使用することとなりたれども、その人々の嗜好と流行とに由りて、その形一定せざるも、大体に至りては左のみ異ならずして概ね同じく、ただ和服下に用うるものは、之を洋服下に用うるものに比すれば、その袖付け稍や広きのみなり。 上に言ったように明治時代には、書生など若い人を中心に、和服の下にもワイシャツタイプのシャツを着こむことが多かった。兵児帯をしめた紺絣のきものの袖口にカフスボタンのついたシャツの袖口が、襟もとに窮屈そうな立襟がみえるのはむしろあたり前だった。しかもそれがたいていは垢染みていたらしく、非難の的だった。もともと白い下着というものを着る習慣のなかった日本人は、肌着の汚れにはどちらかといえば無頓着だった。多くの人は襦袢など、汗になれば棹に吊して、乾けばそれをまた着る、というふうだったのだ。 明治・大正期のシャツのいちばん大きな問題は、シャツはいつも清潔でなければいけません、という心がけと、そのための汚さない工夫だった。もちろんそれはさしあたり、洋服下のシャツ(洋服下のシャツ、という言い方は、1912(大正元)年の【流行】(流行社)にある)、つまりワイシャツに関してだったから、カラーとカフス、とくにカラーは原則として取り外して洗える構造のものが主流だった。商品カタログで見るワイシャツの襟の構造は、第二次大戦の近い時期までほとんどがデタッチャブル式の立襟だ。汚れないように、また汚れをかんたんに拭えるようにと、ゴムでコーティングしたカラーさえあった。 和服の下にカラーやカフスをみせている習慣がなくなるのは、新聞挿絵の事例によると1890年代(ほぼ明治20年代)を通じてであるように観察されるが、文献の上からは1892(明治25)年の『美人の鏡』に、「シャツ――荒き縞流行し、少年は和服の下に用うれども、大人は近年和服の下には多く用いず」とあるのを見る程度だ。しかしもともと、年輩人には少ない風俗だった。 中北部ヨーロッパの気候と、洗濯の容易さとを環境条件にすれば、肌着としてのシャツを着ないこともできなくはないが、そういうダンディズムは日本の7、8月の気候ではまったく無理だ。逆に厳冬の時期でも、「総じて本場のハイカラといえば、冬季にも下襯衣なしに白襯衣(ホワイトシャツ)を着くるという様な男らしき剛健なる処が身上なるに(……)」(→年表〈現況〉1907年1月 「履き違えたハイカラ」読売新聞 1907/1/28: 3)。夏にせよ冬にせよ、紳士にアンダーウエアなど必要ない、という建前論が、シャツ、ワイシャツということばのあいまいさを生んだ、ひとつの原因だろう。 Tシャツタイプのメリヤス製シャツが、襦袢に代わる肌着として、またおもに子どもの運動着として、早い時期から既製品もあったにもかかわらず、日本人が一般にそれを購入して着るようになるのは、だいたい関東大震災(1923)以後であるらしい。ワイシャツに代えて、台襟をもたないいわゆるオープンカラーの半袖開襟シャツを、という趣旨の、1931(昭和6)年以降の[報知新聞]のキャンペーンはよく知られている(→年表〈事件〉1931年7月 「〈開襟倶楽部〉はじまる」報知新聞 1931/7/1: 9)。このころから戦時中にかけて、夏の肌着としてのランニングシャツ、上着代わりのポロシャツが、デパートの商品カタログの常連になってゆく。 (大丸 弘) |