近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 408
タイトル ネル/セル
解説
袷の袖や裾が何となく重くなった、と云って紺飛白の単物は未だ目に立ちすぎると云うような頃には、どうしてもネルかセルの一枚は欲しくなります。
(【婦人之友】1912/5月〉

フランネル、略してネルは薄地の毛織物。表面を起毛し、毛羽立っているので肌触りの柔らかいのが特色。冬のパジャマや各種のアンダーウエア、シーツなどにひろく愛用されている。ただし現代では素材はほとんど木綿の、いわゆる綿ネルになっているので、毛織の本ネルの肌触りを知っている人は少ないかもしれない。

男性のアンダーウエアとして、ネルよりやや高価な素材としてはらくだがある(→年表〈物価・賃金〉1913年12月 「防寒の御用意如何」【みつこしタイムス】1913/12月)。ただし、ほんとうのラクダの毛の交織品がどれほどあっただろうか。大衆はむしろ、暖かそうなラクダ色、ということで厚地ベージュ色の、ネル製下着を購入していたのではなかったろうか。

維新前にもかなりの毛織物が輸入されており、一部の日本人はいわば試着していたことがわかっている。修業時代の福沢諭吉も外国人医師に、なんでも肌につくものはフラネルがよいと勧められて、シャツも股引も足袋もフラネルにしてみたが、かえって風邪をひきやすくなったので、またもとの木綿の襦袢にかえった、と言っている。

もちろん季節にもよるが、明治時代には肌着にネルをもちいるひとが多かった。しかしことに本ネルであると、皮膚の敏感な多くの日本人には、福沢のように木綿の肌触りのほうが好ましく思われたらしい。

フランネルがきものとして一般に使われるようになったのは、1880年代(ほぼ明治10年代)初めからだったという。そのころのネルは、1900年代以後(ほぼ明治末)のセルのように、袷と単衣のあいだの、初夏の素材として愛用されていたらしい。

明治十四五年のころより「縞フランネル」輸入し来たり、当初は襯衣(しゃつ)等に用いたりしが、物数奇(ものすき)の人ありてこれを単衣ものに用いはじめ、終に大流行となりしも道理、肌付き和(やわ)らかく、湿気を防ぎ、衛生上にも良しという所から、上下押し並べて用いぬ人は無きまでに普及せし。
(「毛織物を和服に用ゆる創めは何年頃なりしや」【流行】(白木屋) 1908/3月)
二十年(1887)に至りて玉子色が流行し、これがネル地全盛の時期なり。されば流行の結果がふだん着となり、ねまきとなり、贅沢用には用いられざるようになり、つまり飽きられて、ここにセルが頭を持て上げ大いに持て囃さるることとなりしより、昨今にてはネルの方が野暮という側となりし(……)。
(「嗜好の変遷」【新小説】1901年5月)

ネルがいつごろセルに取って代わられたのかは、はっきりしないが、時代が大正へとかわった1914(大正3)年の新聞にはまだ、袷から単衣ものへの移り替えに、「すっきりと張りのある袷には、乾いた淡々しい味が伴って、昔の女というような匂いがします。それよりは、手触りがふっくらと、柔らかで豊潤な感じがするネルうの方が、現代の人の着物にふさわしく思われます」(読売新聞 1914/5/2)といったネル礼賛がのべられている。こえて1923(大正12)年の【女学世界】に、「ネルを着て 肩あげのあるネルを着て 君あどけなくなりたまふ」という西條八十の詩が載っている。好みは人によってさまざま、世の中の大勢が変化するには、かなりの年月がかかるようだ。

フランネルは、わが国でもっとも早く模織に成功した外来素材のうちに入る。紀州ネルといわれるのがそれだ。もっともこれは最初から綿ネルだった。すでに1871(明治4)年に大阪の兵部省から、兵服の下着に適当なるものとのお墨付きを得て、それ以後毎年買い上げられている。ただし紀州ネルは、それ以前からわが国で織られていた紋派(もんぱ)あるいは紋羽という厚地木綿に毛掻き、つまり起毛を施して改良したもの、という説もある。

セルは維新後の外来織物中、和服素材としてもっとも成功したもののひとつだろう。セルは薄手の梳毛毛織物で、英語オランダ語の serge が語源。そのため明治期にはセルジともよび、おなじものが洋服素材としてはサージとよばれる。

前引の白木屋【流行】誌では、ネルの説明につづいてつぎのようにのべている。

やや後れて十七八年のころセル地にて細かき乱立の唐桟縞輸入せしを、又数奇者の見出す所となりて単衣ものに応用されしが初めにて、終には無くて叶わぬ夏着の一つに数えらるる程の流行となりしが(……)。
(【流行】(白木屋) 1908/3月)

セル、すなわちサージといえば、素材が何であるかよりも、縦糸と横糸が2アップ1ダウンの構成をとる綾地の代表的織物だ。2アップ1ダウンは布面に45度の整然とした斜線を生じ、平織りに次ぐ堅い組織。比較的地が薄いためこの堅さがめだって、それがサージの特色であり、また使い様によっては欠点ともなる。

セルはおしゃれの人達からひどく毛ぎらいされていたようです。それは厚ぼったくて、しなやかさがない上、優美さも持たない無粋な色彩や、柄行きのせいだったのでしょうか。
(佐藤春枝「セル姿にみる浮きぼりの美」読売新聞 1931/5/8: 5)
セルはゴワゴワしていて非常に着にくく、恰好の悪いものです。肥った人がセルを着た形と云うものは、余程下に着るものに注意しないと醜いものになります。
(千葉益子「セルの着こなし」時事新報 1931/5/1: 6)
セルの一番の欠点は、地質が硬くて融通の利かないことでしょう。ですから着た時には綺麗でも、歩いたり動いたりする内に、非常に恰好がくずれ易いと云う事を、お忘れになってはいけません。
(吉田不二 「むつかしいですなア セルの着付」 読売新聞 1936/9/25: 9)
黒いサアジの、女教師でも着るようなスウツ(……)。
(阿部知二『おぼろ夜』1949)

ここに引用した例だけをみれば、なぜセルを着るのかがわからなくなるが、要は着る場合と着こなしだ。佐藤春枝の指摘も、そのタイトルでわかるように、セルの硬さを生かして、もっとモダンな洋服的感覚で着たら――という提案だ。筆者はつづけてつぎのように言っている。「すべての日本のキモノが持つ絵画的な趣味から、洋服にあらわれた彫刻趣味に近づく意味において、セルは大きな役割を演じだしたのです」。

セルが間着としての市民権を得てきたのは、日露戦争(~1905)後のことであるらしい。

袷では暑し、単衣では肌寒しという時候に、もっとも着心地よきはネルとセルの単衣なり。ネルの需要は久しき以前よりの事なれども、この一両年セルもまた著しくその需要を激増したり(……)。
(→年表〈現況〉1907年5月 「ネルとセル」時事新報文芸週報 1907/5/22: 4)

需要のひろがりは、当然それに応えるための品質の向上を生まずにはおかない。時代は飛んで20年後の大阪朝日には、つぎのような記事が見られる。

セルといえばすらりとした縞模様をついこの前頃まで思い出したものだが、一寸見にはメリンスだか銘仙だか、それともお召だか分からないような柄、これがセルですかと手にとって見なければ見紛うような織り方など、技巧も精巧になって来た。
(→年表〈現況〉1930年4月 「セルの季節」大阪朝日新聞 1930/4/9: 11)

丈夫さが買われて部屋着として重宝だったセルだが、1930年代(昭和戦前期)に入るとちょっとした外出にも用いられるようになり、セルの着方、着こなしが新聞面を賑わすようになった。

(大丸 弘)