近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 418
タイトル 女性洋服一般
解説

一年を通じて、街に洋服すがたの女性がめずらしくなくなったのは、1930年代(ほぼ昭和10年代)の後半だったろう。もちろんそれは大都市でのことだが。もう日中戦争のはじまるすこし前ということになる。それ以前でも女の人の洋服はいくらでも見られたが、それはほとんど職場の服装だった。デパートの店員、バスの車掌さん、女工員、学校の先生――などなど。

昭和の初めに、洋服が着てみたいのでバスの車掌の試験をうける娘のはなしが、新聞で紹介されたことがある。発車オーライという「英語」とともに、バスの車掌はこの時代のモダンな職場だった。

デパートの女店員の洋装は松坂屋が先頭をきった。1931(昭和6)年に、東京銀座と名古屋の松坂屋は女店員ぜんぶを洋装にした。銀座店ではまず婦人子供洋服部の従業員からはじめ、ブルーの富士絹のスマートな制服を着せた。もっとも銀座松屋のように、見本までつくったのに着たいという希望者がなかった、というケースもある(→年表〈現況〉1931年6月 「デパート女店員の洋装化」東京日日新聞 1931/6/29: 7)。

女子工員の洋服の歴史ははるかに古い。ただし工員の制服は作業用だから生地も安物の小倉のようなもので、折衷服的なデザインが多く、またあまり街で見かけるというものではないから、べつに考えたほうがいいかもしれない。

女教員の洋服にはいろいろ問題があった。東京府の場合だが、すでに1889(明治22)年に、府の学務課長から各私立小学校に対し、教師はなるべく洋服であるよう諭達が出された(→年表〈事件〉1889年1月 「私立小学校の教室」絵入自由新聞 1889/1/16: 19)。しかしこれは男性教師のみで、女教師には直接関係ない。その後1929(昭和4)年の東京市女教員会は、小学校の女教員は洋服を着ること、という決議をしている(→参考ノート No.525〈女教師〉)。

言ってみれば1930(昭和5)年以前の女性洋服は、巷に点々と、街灯か広告塔のように存在していたことになる。

開化後の女性洋装史のなかで、鹿鳴館舞踏会の洋装のイメージをあまり大きく考えるのはまちがいだ。せいぜい百人たらずの人間が、閉ざされた輪のなかで短い時間をすごしていたにすぎない。その後ときおり帝国ホテルの舞踏会などもひらかれ、洋装の貴婦人も小数参加しているが、これもホテルの外の街とは無関係な閉ざされた世界だ。

むしろそういう閉じた世界を背負ってはいても、ひとつの存在感としては、この時代大量に流布した、昭憲皇后はじめ、皇族がたを写した額絵や写真の方が、民衆にとっては印象的だったろう。エドアルド・キヨッソーネ(Chiossone, Edoardo 1833~1898)の銅版画の、明治天皇とならんでいる昭憲皇后は、「デコルテーにツレーンを掛けさせ給えるものにて、御冠の宝玉はみな絢爛たる金剛石の御飾りなり。(……)デコルテーは無地或いは模様物を用い、御胸には真珠の御飾りを附けさせ給い、御下袴即ちペテコートは絹物又は織物にて、其の上にスカーツ即ち御袴を穿たせらる(……)」(「服飾門 皇后陛下御服装」【風俗画報】1907/2/10)等々と描写されるように、みごとな純白のロブ・デコルテだ。

1900、1910年代(ほぼ明治30年代~大正前半期)の、つばのひろいかぶりものに、ハイネック、怒り肩、うしろにトレーンを曳いた白いドレスは、赤十字社や愛国婦人会のように皇族方が総裁の地位にあったり、また主賓として招かれる会合には、かならず正面の一段高い所に居ならんで、それは翌日の新聞の第1面で、読者の眼に飛びこんだ。

ともあれそういう街灯なみの洋装の時代が終わり、洋服にひとの眼が見なれてきた最初は、女学生のセーラー服や、子ども服だったろう。それは1920年代(ほぼ大正10年代)のことだ。欧州大戦後の好景気時代の、子ども洋服の広がりは急速だったといわれる。それにつづく洋服の普及は、震災後の、とりわけ夏の家庭着だった。

1920年代から30年代初めにかけて(大正後期~昭和10年代半ば)の欧米のファッション―シース・ドレス(鞘型)が、洋服に慣れない日本人にも着やすいことに気づいた人は少なくなかった。1922(大正11)年にたまたまアメリカにいた市川房枝も、アメリカ女性が愛用しているエプロンドレス、ハウスドレスを日本女性の家庭着として推奨している(→年表〈現況〉1922年5月 市川房枝「米国から―先ず各自の家庭で主婦が洋服を着初めたらどうでしょう」読売新聞 1922/5/26: 4)。この種のドレス――フロック(frock)のなかには、袖を裁ちだしの構造、いわゆるキモノ・スリーブにして、素人でも簡単に仕立てられるデザインのものもあった。アメリカにくらべて既製服産業のはるかに遅れていた日本人には、このことは大きな恩恵だったろう。

関東大震災をはさんだこの時期に、安物の浴衣地から袖ごとの大きな1枚のパターンを切りぬき、くびのでる孔をあけ、脇縫いだけすればでき上がり――という、カンタン仕立ての簡単服が、日本人にうけいれられたのは自然の勢いだった。いままで洋服など着たこともなかった中年のおばさんや、けっこう年のいった女性までが、夏の縁台の涼みや、近所の買い物だけに着るこんな「洋服」で、洋装の初体験をしたのだ。だから洋服は夏以外のものではなかったし、家から50メートル以上離れて着るものでもなかったろう。それは注文服についても似たことがいえたらしい。震災の翌年、東京の著名な洋服店主は、洋服を着る女性の増加に関連してこんなことを言っている。

今年はお若い方よりも、四十前後の方のお求めがずっと多うございました。しかし惜しいことには外にはお使いにはならず、お家でばかりお召しになるので、一般には知れておりませんが(……)。
(→年表〈現況〉1924年8月 「こっそり家で着る年増の婦人洋服」国民新聞 1924/8/4: 5)

これをきくと、街頭でカウントする、和装洋装の着用者比率などには、慎重な留保が必要だとわかる。

1900~1940年代(明治30年代~昭和20年代前半)の女性洋服をめぐる、大きな変容のひとつは、日本女性のからだが、だんだんと洋服むきになってきたことだ。その点ではむしろ男性を超えた、といえそうだ。

和服が美しいと言い、幾ら好きでも、此の頃の女の子は、体格が承知しなくなっている。肩が張って、胸幅腰回りが発達して、第一動作が全然変わって来ているので、だんだん和服の似合わない女性が多くなってくる。
(→年表〈現況〉1937年3月 水木洋子「女性美と洋装」【新装】1937/3月;→年表〈現況〉1936年9月 徳川夢声「女性風俗時評―アッパッパーの似合うからだ」東京日日新聞 1936/9/29: 8)

統計の数値がしめす明治の女性にくらべて、この時期の女性の身長の伸びは確かだが、男性にくらべればそれほどではないし、短足胴長の体型が変わったというわけでもない。洋服が似合うからだとは、からだの大きさや体型以上に、姿勢や、動作や、敏捷さや、まなざしや、表情であり、それは学業や、スポーツや、職業や、女性の前にひろがった大きな可能性への意欲がはぐくんだものにちがいない。

一方でまた、最初は人の目より必要にせまられて、あるいは家の周りだけでおそるおそる着はじめた洋服に、からだも気持も慣れてゆく、ということも多かったにちがいない。洋服は肩がはる、という女性は多かった。気分の問題もあるが、和装にくらべればいくぶんか、肩で重さを支えていることはたしかだし、袖つけが窮屈かもしれない。襟がないから寒いとか、お腹にしまりがないので頼りないとかいうひともあった。洋装にはかならず帽子をかぶるもの、と考えられていたので、それで頭痛になったり、靴ずれで悩んだ人もあった。しかしたいていの人は、すべて慣れが解決した。

女性の多くは気にもしなかったろうが、最初から女の洋装に反感をもつ男、毛嫌いする老人があった。1930年代半ば(昭和10年代初め)すぎて物不足が目立ってきたころには、洋装は贅沢、という固定観念をもつ人がいたようだ。「女性の洋装を全廃することによって、どれだけ多くの物資がより有効に役立つことか」という投書もあった(→年表〈現況〉1939年3月 「投書―婦人の洋装を廃せ」報知新聞 1939/3/17: 2)。

(大丸 弘)