近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 404
タイトル 縮緬/御召/銘仙
解説

この時代、和服の地質中もっとも好まれ、また高価だったのは、女ものでは各種の御召だった。

模様物を除いて最も世に広く用いられているのは御召縮緬(おめしちりめん)である、之は寧ろ流行と言うよりも、廃らぬと言った方が至当である、何故に御召が廃らぬかと言えば之に超す品がないからである。
(近藤焦雨「最新流行の織物」【文芸倶楽部】1907/3月)
婦人ものの中で、上等品といえば、やはりお召類を推さねばなりません。現今の機業界は全くの所、お召し以上の品を織り出すことが出来ないので、ただそのお召しの織り様を、時機に適して種々に工夫されているばかりなのです。
(「夏ごろも」【新小説】1909/6月)

御召はもちろん絹織物で、緯(ぬき=よこいと)に御召緯という独特の強撚糸(ねんし=よりいと)を使っている。撚糸というのは糸をちょうどねじり鉢巻のようによじっていて、そのままでは戻ってしまうから糊づけしている。織りあげたのち糊を落とすと撚りがもどり、布面に細かい縮みの凹凸を生じる。布地ではこのデコボコをシボと呼ぶ。シボは単純な布の表面をやわらかくし、一種の華やかさを生じさせる。男ものに縮緬や御召があまり使われないのは、この華やかさが、男にはなんだかにやけて見えるためだ。男の正装といえばシボのない黒羽二重の紋付、ということになる。

絹糸を使った縮みを一般に縮緬という。だから御召は縮緬の中に入り、御召縮緬というのはていねいな言い方になる。もっともものの本のなかには、御召縮緬という言い方はまちがいだ、と書いてあるものもある。一般の縮緬と御召とは、染織/精錬と、織りあげとの順序がちがうので、あるいはそうかもしれないが、業者もライターも気にせずにこの言い方をしている。

撚糸はすべて緯、つまり横糸として使うもので、いわば構造体にあたる縦糸には使えない。縮緬のなかでも御召にはどんな緯をいれるかは、御召の解説にはかならずくわしく書いてある。ただし、国史大事典のような堅い資料であると、1920年代以後(大正後半~)の、たくさんの新しい工夫を加えた、多様な御召にはあてはまらなくなる。これは御召にかぎったことではないが。

芥川龍之介が友人の菊池寛の「藤十郎の恋」の初稿を読んで悪作だときめつけ、「やたらに友禅縮緬のようなセリフがある」と言ったという。 縮緬地を友禅柄に染め上げた友禅縮緬は、着物のなかではもっともはではでしいものだ。

1929(昭和4)年のある対談のなかで、三越の仕入係長が、絹織物の25パーセントは縮緬ですから、縮緬は織物界の女王といえるでしょう、と言っている。女王というのは縮緬に対する尊称だが、それと同時に若い女性の、縮緬の着物へのつよい執着をも印象づける言いかたのようだ。しかしその縮緬も、1900年以前(ほぼ明治時代)には、製錬技術の未発達からか、シボの大きいもっとゴリゴリした手触りのものだった、といわれる(「織物界の女王縮緬の産地と種類」【婦女界】1929/12月)。

縮緬の、女もの着尺としての頂点ともいえるのは、1900年代(ほぼ明治30年代)に生まれた錦紗縮緬で、素材にモチ、ということを重んじなくなった時代の産物ともいえよう。細い糸を織りこんで、うっとりするような柔らかい手触りを生みだすのに成功した。錦紗(きんしゃ)を着て銀座を歩くことが夢、という娘さんが、第二次大戦が近づくころの、東京の下町には少なくなかったはずだ。

御召にしても、着尺のうちの最上品と評価されるようになったのは1900(明治33)年頃からのことだから、この間(明治後半期)の、わが国の機業地の技術的向上がいかに大きかったかを、察することができる。

縮みは絹ものだけではなく、麻にも、木綿にもある。ツヤをもたない麻や木綿のシボは、美しいというものではないが、凹凸があるので肌にひっつかず、とくに夏の衣料としてはこのましい。シボをつくって肌にひっつかない効果をもたせた素材としてほかにサッカーのようなものがあるが、シボを作る方法はちがう。綿の縮みのシャツは、現代でも夏の肌着としてはなせない、というひとが多い。

和服地の高級品を代表するのが御召なのに対して、実用絹織物としてもっとも広く用いられたのは銘仙だった。銘仙は江戸時代後期に、規格外の絹の屑糸を利用し、もっぱら自家用として織りだした製品だ。糸の太さも一様でないので、紬のような、ざっくりした感触になる。上州――群馬県の伊勢崎、秩父、足利周辺にはじまって商品化され、最初は太織とか太織縞とよばれていた。しかし明治期の裁縫書をみると、太織と銘仙とを区別している場合もあるし、メイセンの表記法もマチマチだ。

明治時代の銘仙はまだ地機で織りあげた、茶縞や黒っぽい絣にかぎった、命知らずといわれるほど丈夫ではあるが、見栄えのない織物だった。しかしとにかく絹ものではあったから、庶民にとっては外出のときの一張羅だし、余裕のある暮らしの人もふだん着としては愛用していた。それが時代が大正と変わるころ(1910年代)から変化してくる。

銘仙はそのはじめ縞物だけでありました。俗に銘仙縞といいまして、恐ろしく田舎っぽい、野暮くさい、丈夫一方の大人物、それもむしろ年より向きの絹物でありました。それが近年になりまして伊勢崎が絣をおくことを考え出して絣銘仙というものができだしました。のちさらに足利ですかが、(……)模様銘仙というものを生じ、ここに銘仙は一飛躍をしたのであります。今日では銘仙といいますと、あのきれいな色の、華やかな模様のついている銘仙のことをいうくらい、模様銘仙というものが銘仙界の流行品になっているのであります。
(三須裕「流行の先端を行く銘仙」【婦人世界】1928/10月)

1920年代(大正末・昭和初期)以後の銘仙は、御召とはべつの領域での着尺の王者だった。どんなデパートにも銘仙売場が設けられ、銘仙専任の番頭さんが、好みがうるさく、計算に細かい奥さんやお上さんを相手に、声をからしていた。

(大丸 弘)