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解説
0. 装いの周辺
001 和・洋服の比較論
明治開化期の西洋服装の受容も、港湾の築造、鉄道や電信の敷設、軍事や行政体制の整備とおなじように、必要に迫られて先進欧米諸国にひたすら追随する、という部分が先行し、突出していた。だからそういう先行部分、皇居や赤坂霞ヶ関周辺の、公や官という字のつく人々の洋装化が一段落すると、さしあたっての必要をもたない多くの日本人の洋装化のテンポはにぶくなり、衣文化の二重性の時代が半世紀近くもつづく。その半世紀のあいだ、洋装がいいか和装がいいかという議論がくりかえされた。この議論はもちろん日本人の衣服改良、あるいは改良服の…
0. 装いの周辺
002 西洋人・白人羨望
明治維新の開国とその後の近代化が、直接には欧米諸国の働きかけと、西洋文明への追随という基本的方向をもっていた以上、日本人が欧米人を師と仰ぎ、なにかにつけて彼らを畏れ敬う態度をもっていたことはやむをえない。明治初期の欧米人と日本人とは、すくなくとも改革と進歩に関わる部分では、先生と生徒の関係だった。西洋人は思慮深く、賢い、という日本人の先入観は案外長くつづく。1923(大正12)年の関東大震災のときに、たまたま沼津付近を走行中の急行列車が激震のため停車を余儀なくされた。この列車が名古屋に到着したのを報じた…
0. 装いの周辺
003 廃刀令と士族
明治の新聞小説では、登場した人物の風貌を簡単に表現する便法として、何々風、という言いかたをすることが多い。そのなかで士族風、という言いかたがよく使われるのは、だいたい1880年代(ほぼ明治10年代中期)までのことだ。遊び人風とか、商人風とか、一見紳士体の、とかいう表現は、その後も相変わらずつかわれている。商人風とあれば、つづけて縞のきものに小倉の帯、前垂れがけで云々、というような説明のつくことがあるが、士族風という人物にはそれがまずない。おそらく、士族風とは着ているもの、身につけているもののなにかにでは…
0. 装いの周辺
004 生活水準の向上
近代80年、衣生活の変化のもっとも大きな理由のひとつは、日本人が経済的に豊かになったためであることは疑いない。個々人の豊かさの基盤には、日本の国全体が豊かになったことがあるが、国の豊かさを機械的に国民ひとりひとりの豊かさとして表現する方法に、粗国民生産(一般には国民総生産といわれる)GNPを人口で割った、ひとりあたりのGNPを比較する方法がある。よく利用されているイギリスの経済学者アンガス・マディソンの試算では、日本の1870(明治3)年は737であるのに対し、1940(昭和15)年は2,874であり、…
0. 装いの周辺
005 衣料品の価格
近代100年の衣料品価格の推移を考えるとき、忘れてはならないひとつの前提がある。それはこの時代の前半期には、都市生活者であっても大部分の人たちは、現代のような完全な消費者ではなく、衣服生産のかなりの部分を自分たちが担ってもいた、という事実だ。東京の山の手に住む地方出の旧士族のなかには、機織りから糸紡ぎまでを、女の業として明治の半ばまでし続けている家が少なくなかった。女子教育者のなかには、女子教育の科目中に裁縫だけでなく、機織りも含めるべきだという考えを持っている人が、明治の後半にもいた。機織りはさておき…
0. 装いの周辺
006 教育制度の整備
明治新政府による教育に関する施策は、1872(明治5)年の学制(【太政官布告】第214号、ここで学制ということばは、この布告を指す狭い意味に用いられている) の公布にはじまる。しかしこれは混乱していた当時のわが国では時期尚早だったようで、ほとんど実効性のないまま、1879(明治12)年の教育令に引き継がれて廃止された。学制、教育令、翌1880(明治13)年の改正教育令への変転が、教育の近代化への志向と、それに抵抗する天皇側近の儒学者との葛藤を反映していることはよく知られている。天皇の侍講(じこう)である…
0. 装いの周辺
007 階級/身分
事故や犯罪にかかわる人物の識別のためには、むかしもいまも警察が詳細な調書をつくる。写真の利用が不十分だった明治時代には、顔つきや着ているものの注記がかなり念入りだった。髪の刈り様から鼻の高低までを書きつけた上で、士族風とか、御店者(おたなもの)風とか、一見権妻(ごんさい=妾)風、とかいう括りかたをしていることが多い。そのことは新聞の社会面の、水死人や行き倒れの記事にも共通する。士族風は1890年代(ほぼ明治20年代中期)にはほとんど見られなくなる。80年代、90年代を通じて頻繁に出てくるのは、官員風、商…
0. 装いの周辺
008 華族
明治新政府の打ち出した四民平等のたてまえは、華族という特権階級を温存することで不十分のものとなった。ひとつかみといってもよい華族の存在などは、庶民にとってはなんの関係もないともいえたが、そのひとつかみの華族が、小説のなかなどへはけっこう頻繁に登場するのをみると、そういう人たちが存在しているという事実は、小さくない意味をもっていたにちがいない。1884(明治17)年の華族令公布により、わが国も欧州諸国の制度を見ならって、公、侯、伯、子、男の五爵位が定められた。1900(明治33)年現在では、公爵11人、侯…
0. 装いの周辺
009 女性の地位
近世は日本史のなかでも、女性の地位がもっとも低く、権利の奪われていた時代といわれる。それが開化の時代になったとたん、なんの抵抗らしいものもなく、いままで閉ざされていたさまざまな扉が女性に向かって開かれた。たとえば、多くの密教寺院では女人結界が解かれ、女性の入山が許された。結界とは、修行の障害となるおそれのあるものを近づけない、境界をいう。代表的なのは紀州高野山の金剛峯寺だったが、密教寺院は70寺以上が、寺域に女性を立入らせなかった。一方、神社は血の穢れを忌むため、女性は月のうち数日は社の鳥居をくぐること…
0. 装いの周辺
010 男と女
1872(明治5)年の東京-横浜間の鉄道開通に備えて公布された〈鉄道略則〉の第8条では、婦人のための車両への男子の立ち入りを禁じている。もしこれが実現していたとすると、最初の婦人専用車ということになる。婦人専用車両については今日でも賛否の意見が分かれる。体力の点では、男性に比べて女性が劣ることは事実だから、弱い者を保護するのは当然のこと、とみる見方と、これはむしろ一種の差別につながるのではないか、という異論がある。〈鉄道略則〉の場合、欧米の先例に倣ったにすぎないのだろうが、この時代の男たちの、一般に女を…
0. 装いの周辺
011 キリスト教
「無智な大衆」が、理由もなく毛嫌いしたり、怖れていたのが、近代100年の後半では赤――共産党だとすると、前半ではキリスト教だったろう。しかしキリスト教が日本の社会にある種の影響力をもっていたのは、むしろ明治時代だった。1873(明治6)年の6月に、列国の圧力により新政府は、「従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除可申事」という布令によって、切支丹禁制の高札を撤廃した。けれどもすでに横浜など開港地では、多くの宣教師が活動を開始していた。彼らが最初に手をつけたのは当然ながら語学塾だった。中国での伝道の経験…
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012 舶来
舶来品とは外国から輸入した物品をさすが、現代の日常語としてはほぼ死語になっている。鎖国だった江戸時代のわが国は、当然自給自足だった。もっともだいじな生産物の米も何年かおきの地域的な凶作をべつとすれば十分の収量があり、明治の初めは輸出品の一部でさえあった。その時代のわが国にとって外国からの輸入品とはすべて、それまで通りの日常生活からみればなくてもすむようなもの――贅沢品だった、といってよい。おそらくどんな時代、どんな国にとっても、遠くの国からもたらされた品物はめずらしく、貴重で、ときにはふしぎなものなのだ…
0. 装いの周辺
013 居住スタイル
開化以来の服装改良論者に対して、その時期尚早を説く人たちのいう根拠に、改良はまず住居が先、という指摘があった。第一に、靴をぬいで畳の上にすわる習慣、第二に、木造家屋の冬の暖房の不完全さ、これらが西洋風にならないかぎり、衣服だけを変えることはむり、というのだった。そのこととはべつに、居住スタイルの西洋化の、もうひとつの方向があった。それは住居内でのプライヴァシーの確保だ(→参考ノートNo.117〈裸体と露出〉)。第二次大戦以前の家政書では、日本人の住まいは日本人の伝統的な、うつくしい家族制度にもとづくもの…
0. 装いの周辺
014 畳からイスへ
明治の日本人が生活の洋風化をつよく印象づけられたものに、洋服を着た人間とならんで、いろいろなところに入りこんでくる、机とイスがあっただろう。もともと洋風化はお上の、つまり政府の音頭取りとはだれもが思っていた。だから洋服を着ている人は軍人やお巡りさん、それから官員さんだったし、高い机とイスのあるところは役場や警察、郵便局に銀行、それから学校というような公的施設で、堅い、窮屈な場所だった。1880(明治13)年の[郵便報知新聞]に、千葉県葛飾郡のある役場では、「例の倚子テーブルなどは用いず、従前の机にて畳の…
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015 照明
明治の東京の町は暗かった。とりわけ1890(明治20)年頃までがそうだった。これは当時麹町に住んで銀座の新聞社に通っていた岡本綺堂も、回顧談のなかでくりかえし言っている。夜、町全体が明るかったのは、吉原遊廓ぐらいのものだった。1874(明治7)年の暮れ12月に、銀座通りにはじめてガス灯の街灯ができる。「惜しむらくは灯火力弱く光うすし、およそ横浜街灯の半分の光焔なるべし」といわれたが。その後それほど間をおかずに、日本各地に街灯が設置されはじめる。大阪市の場合、1877(明治10)年までに市内に設置された街…
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016 上水道
水道の普及が家庭にもたらす福音は大きい。歴史的にみても、集落の成立にはなによりも飲料としての水源確保が欠かせなかった。古代都市にもりっぱな上下水道の敷設されていた例は多い。しかし現代の日常生活はもっとぜいたくだから、水については、どこの家でも蛇口をひねると水が出て、好きなだけつかえる、というのが目標になる。そういう意味では、わが国の大都市で、すくなくともその大部分の市域で水の憂いがなくなったのは、だいたい1930年代に入ってから(昭和5年以後)のことだった。上水道敷設以前に家庭に必要な水は、ふつうには井…
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017 暖房
過去1世紀のあいだに、とりわけ大都市の気温が上昇していることは、すでによく知られている。近年は暖冬というのが平均気温のようになっている。1876(明治9)年1月13日に、東京市で-9.2度を記録した(『理科年表』 以下おなじ)。6大都市中では京都市の1891(明治24)年1月16日の-11.9度が最低。ただし最低気温がすべて19世紀、というわけではない。東京では1883(明治16)年2月7から翌日にかけては40年来という豪雪で、浅いところで50センチ、風の吹きだまるところでは、5、6尺(170センチ)に…
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018 環境悪臭
終戦後まもない時期に日本ロケに訪れたアメリカの女優が、帰国するときの挨拶のなかで、日本の街にはいやな匂いのするところがある、というアメリカ人がいますが、私はそうは思いません、という意味のことを言った。彼女は美しい顔に愛想のいい笑顔を浮かべて、好意のつもりで言ったのだが、聞いた多くの日本人はおどろいた。やがてそれが、その時代まだ日本の家庭がほとんどそうだった、汲取式便所と関係があることを知って、苦笑し、コンプレックスを感じた。1960年代(ほぼ昭和30年代後半)までの日本では、東京横浜の近郊農家では、ほと…
0. 装いの周辺
019 公衆浴場/銭湯
公衆浴場のある国、都市はすくなくないが、それが江戸時代の日本ほど発達した例はほかにないだろう。開化以後約100年のわが国は、それを受けついでいる。江戸時代は町屋で内風呂をもつことが禁止されていたわけではないが、少なかった。大きな商家で内湯のある家でも、奉公人は大戸を下ろしたあと、かわるがわる近くの銭湯に行った。湯屋が髪結床と並んで庶民の社交場だったことは、式亭三馬の『浮世風呂』をみてもよくわかる。江戸では銭湯を湯屋という。湯へへえってくる、などと言った。東京の銭湯は、1880年代末(ほぼ明治10年代後半…
0. 装いの周辺
020 衣服の手入れ
日本の婦人は家庭に於いて、家人の衣服の始末をいたしますが、これは家事中最も大切なことの一つでありまして、これがために日本の家庭経済上どれほど、都合がよいか知れないのであります。冬になれば夏のものを、夏が来れば冬物の始末をするため、洗濯したり仕立て直したり、前身が傷まぬうちに後身と取替え、袖口が切れぬうちに袖付と振替え、姉のものを妹に譲るというように、いろいろの工夫をして、主人の衣服から子供のものまで、その季節に後れないように、それぞれ準備をいたしますことは、誠に手数のかかる煩わしいことのようで御座います…