| テーマ | 装いの周辺 |
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| No. | 018 |
| タイトル | 環境悪臭 |
| 解説 | 終戦後まもない時期に日本ロケに訪れたアメリカの女優が、帰国するときの挨拶のなかで、日本の街にはいやな匂いのするところがある、というアメリカ人がいますが、私はそうは思いません、という意味のことを言った。彼女は美しい顔に愛想のいい笑顔を浮かべて、好意のつもりで言ったのだが、聞いた多くの日本人はおどろいた。やがてそれが、その時代まだ日本の家庭がほとんどそうだった、汲取式便所と関係があることを知って、苦笑し、コンプレックスを感じた。 1960年代(ほぼ昭和30年代後半)までの日本では、東京横浜の近郊農家では、ほとんどが人糞主体の肥料を使っていた。キャベツや大根の育っているのどかな畑のところどころに、柵もない野壺(のつぼ)が、腐敗した人糞を一杯たたえていた。都会の子どもたちは、郊外遠足で畑のなかの小道をたどりながら「田舎の香水」と言って笑った。しかし外国人、とりわけ敏感な嗅覚をもった女性などは、都市部の住宅地帯を歩いても、もちろん比較にならない微弱さではあったが、おなじ種類の匂いを感じとったらしい。 関東大震災以前の日本では、一般住宅の水洗便所はゼロに近かった。東京の場合、公共汚水処理場である三河島浄水場が建設され、運転を開始したのが1922(大正11)年のことで、それ以前はごく一部の高級住宅が、各戸ごとの私設浄化槽で処理していたのだ。せっかく水洗便所をつくりながら費用のかかるのに音をあげて、汲取式に作り替えたという話も伝えられている。東京が本腰をいれて水洗化にふみだしたのは1936(昭和11)年、東京オリンピックを4年後にひかえての緊急の措置だった。東京府は〈市街地建築法〉の施行細目の実施にともない、都心の一部区域内では、家屋の新築の場合、水洗便所でなければ建築認可をあたえないこととし、すでにある汲取便所も、5年以内に改造することを命じた。しかしこの措置も、翌年からはじまった日中戦争、それにつづく日米英戦争のために停滞してしまった。 1935年(昭和10)年10月の国勢調査では、東京市の所帯数は1,287,620。各戸にひとつの便所があるとすると、この数字とほぼ同数の糞尿の溜まりがあることになる。道路も広く、建物も大きいビジネス、商業地域はべつとして、二部屋三部屋くらいの小住宅の密集した地区、とりわけ低湿な地域では、一種の「街の匂い」がすることはやむをえなかったろう。 19世紀も末頃(ほぼ明治中期)には、街角の共同便所の臭気や不潔さが問題になっている。掃除がゆきとどかないため、汚くて足もふみこめないとか、馬車に乗っていても、橋際の便所の臭気がたまらない、といった苦情が多い(→年表〈現況〉1903年8月 「東京市中の共同便所」読売新聞 1903/8/22: 6;→年表〈現況〉1903年12月 「不潔な煉瓦建ての便所」朝日新聞 1903/12/14: 5)。 便所に溜められた糞尿自体のほかに、糞尿の汲取作業も問題だった。大都会でもバキュームカーが導入されたのは第二次大戦後のことだ。高さ60、70センチの肥桶(こえたご)をたくさん積んだ牛車が、都大路をのろのろと進んだ。そればかりではなく、汲みとった糞尿を一時蓄えておく大溜というものまで、住宅に接近して設けられていた。維新後まもない1871(明治4)年につぎのような東京府布達が、村々正副戸長宛に出ている。 下掃除の者が白昼人跡の繁き路上を蓋もない糞桶を運んでいるのは一般のことで、諸人も怪しまないが、その実は甚だ不潔のことで、就中府下は皇居もあるところで、百事の風習が自ずから四方に関係するのであるから、右様不潔のことは相改め申すべく、自今以後は屹度糞桶の蓋を製し臭気の洩れざる様に心を付け(……)。 村々戸長宛、となっているように、近郊農村にとっては、都会から排出される糞尿はなくてはならないものだった。 糞尿を排泄するのは人間だけではない。1880~1900年代にわたって(明治中・後期)に、東京の、それも目貫の地区での悩みのひとつは、馬車、馬力、それに鉄道馬車の馬の落とす糞尿だった。馬の場合、糞は比較的掃除がかんたんなのだが、小便には悩まされる。1883(明治16)年、3年前に開通した鉄道馬車の往来のため、銀座通りの、とくに日本橋周辺の馬の継立場では、馬の小便のため悪臭たえがたく、近隣の住民は会社と交渉したものの埒があかず、結局その筋に願い出た、という事件があった。馬の排泄物の悪臭については、それ以前にも、繁華街の商店、とりわけ飲食店が、馬の大小便の悪臭がはなはだしく、そのために客足が遠のいているという苦情を提出している。 都市悪臭はもちろん人や動物の排泄物だけが原因ではないし、また東京、日本だけの問題ではない。また臭気には特定の地域にかぎられているものが多く、ある季節、天気、時間帯にとくに意識される種類の匂いもあり、また単純に悪臭と言いきれないような、街の匂いもある。太平洋戦争以前の80年についていえば、住民を悩ました悪臭のひとつは、夏のあいだのドブからのものだったらしい。生ゴミを含む家庭ゴミを、無造作にドブに放り込む人も少なくなかった。大震災直前の1922(大正11)年8月、「臭い東京」という投書が[朝日新聞]に掲載された(→年表〈現況〉1922年8月 「臭い東京」朝日新聞 1922/8/10: 3)。投書者はこの暑さに外堀から立ちのぼる臭気と、その水を道路に散水している人の無神経さへの怒りを露わにし、外堀を大きなドブ、と罵っている。じっさい、上水道にくらべて、下水道の整備ははるかにおくれていた。下町、あるいは庶民の町といえば、ドブとどぶ板がひとつのシンボルだった。 白いコンクリート製のゴミ溜が、市街地のあちこちに設置されて、野積みの掃溜が一応なくなったのがいつかはっきりしないが、大震災後(1923~)のころだろう。 (大丸 弘) |