| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 005 |
| タイトル | 衣料品の価格 |
| 解説 | 近代100年の衣料品価格の推移を考えるとき、忘れてはならないひとつの前提がある。それはこの時代の前半期には、都市生活者であっても大部分の人たちは、現代のような完全な消費者ではなく、衣服生産のかなりの部分を自分たちが担ってもいた、という事実だ。東京の山の手に住む地方出の旧士族のなかには、機織りから糸紡ぎまでを、女の業として明治の半ばまでし続けている家が少なくなかった。女子教育者のなかには、女子教育の科目中に裁縫だけでなく、機織りも含めるべきだという考えを持っている人が、明治の後半にもいた。 機織りはさておき衣服の製作となると、これは家々の女の仕事であることに、20世紀と時代があらたまっても、おそらくだれも疑いをもっていなかった。広い世の中には生まれつき不器用な女性もあるし、また女手のない家もある。ごく上等な晴れ着には商売人の手に任せたいものもあるだろう。しかし明治初頭でいえば、東京の100万を超す人口に供給する完成品の衣料は、おそらく9割までは商品流通の対象外だったとみてよい。残りの1割は古着市場の商品で、既製品が皆無ではなかったが、コンマ以下の比率だったはず。 そのため江戸時代にひきつづき明治期にも、新品の衣服の価格というものは記録の上にまったくと言っていいほど出てこない。古着の値段はものの状態次第でピンからキリまでだし、相場の変動も大きい。よく出てくるのは盗品に対する警察の評価額だが、これも古着の価格同様、あまり手を通していないものと、すじ切れや何度も縫返しの痕のあるものとではまるで評価が違う。もし新品の羽織やきものの商品としての評価額をいうのなら、反物の価格に仕立て代を加えたもの、襟や裾回し、ものによっては中綿や、その他細々したものも忘れずに加えたものがそれに当たるだろうが、ともあれ、それはあくまで仕立てを外に出した場合のことで、すくなくとも1910年代頃までは例外的だった。 1900年代(明治30年代中期)にはいると、大きな呉服店が競って商品カタログを刊行しはじめた。そのなかには各種衣服のお仕立て上がり価格表もみえているので、その例をここに示す。 御衣裳仕立上り見積表 明治30年代というと、小学校教員の初任給が11円前後、一般家庭の住み込みの女中さんの給料が2円前後だった。こうした三越や白木屋の、仕立て上がりの羽織や袴の値段が、その時代の衣類価格の標準になるとは考えられない。 衣服の製作と管理がほとんど家庭内での作業だったということは、妻も娘も、ときには年老いた母も、無職という肩書きとはすこし違っていたともいえる。現代でも専業主婦は無職とはいえないという主張がある。家事も育児も、それを外部に頼めばたいそうな値段になるから、というのがその根拠だ。日本では夏冬の気候の差が大きいことや、衣料素材や衣服の構造の関係もあって、家族の着るものの手入れや作り替えのための手数が、世界の他の文化圏と比較してもとりわけかかった。嫁入りの必須の条件のひとつは裁縫技術だったし、家族の人数が多ければ、女中の手も借りなければとてもみんなの着るものの世話はできなかった。ということは、1910年代ぐらいまでの衣料費には、家族のなかの女たちの労賃や、女中の給金の一部も加算しなければ不合理ということになる。 1910年代以前、以後、という線がひとつのメルクマールになる理由は、この頃から出来合品――既製衣料品の家庭内への浸透が目立つようになり、加えて女中を雇うことがむずかしくなりはじめたという、これらが次の時代へのひとつの転換点となったためだ。 じつはこれとよく似た転換点は、明治のはじめにもあった。それは官庁をはじめとする勤め人たちが、洋服の日常に入ったときだった。もちろんそれは国民のなかの一握りの男性だけだったし、その男たちのほとんどすべては家に帰れば和服に着替えたのだが、それでも夫の登城の紋付羽織袴を自らの手で縫い上げていた妻たちは、いくぶんか肩の荷が軽くなったに違いない。もちろんその代わりその洋服はほとんど注文品の商品だったから、妻たちの労力は、こんどは衣料支出という家計上の負担になり代わった。馬車に乗って参内する顕官の大礼服はもちろん、警察官の制服も階級によっては官給でなかった時期があり、ずいぶんみすぼらしい恰好の警官がいて問題視されたこともある。商品としての衣服は、わが国ではこうして洋服の浸透と歩調を合わせた。夫の背広も妻の手で、という果敢な裁縫教育者もあるにはあったけれど――。 1910年代とそれ以後の衣料支出での大きな課題は、和服と洋服とどっちが経済的か、という問題だった。こんなことが議論のテーブルに上がるようになったこと自体、洋服が中産階級の人々の日常生活にもある程度浸透し、したがって理解もされはじめた、ということだろう。商品としての衣料は、勤めに出る男性たちと男女学生服に次いで、子供服、とりわけ女児服に及んできた。自分で着るのは恥ずかしいハイカラな洋服を幼い女の子に着せて愉しむことからはじまり、やがて子どもは洋服以外着せない、という親が都会では珍しくなくなってくる。 衣料の自家生産能力がだんだんに落ちていったのは1920、30年代(大正後期~昭和戦前期)だったが、それがにわかに甦ったのが40年代(昭和15年前後)、そして第二次大戦後のしばらくの期間だった。物不足は古い衣料の更生の工夫を生み、また多くの既製品の消えた穴を、腕に覚えのある女たちが健気(けなげ)に補ったのだった。 (大丸 弘) |