近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 016
タイトル 上水道
解説

水道の普及が家庭にもたらす福音は大きい。歴史的にみても、集落の成立にはなによりも飲料としての水源確保が欠かせなかった。古代都市にもりっぱな上下水道の敷設されていた例は多い。しかし現代の日常生活はもっとぜいたくだから、水については、どこの家でも蛇口をひねると水が出て、好きなだけつかえる、というのが目標になる。そういう意味では、わが国の大都市で、すくなくともその大部分の市域で水の憂いがなくなったのは、だいたい1930年代に入ってから(昭和5年以後)のことだった。

上水道敷設以前に家庭に必要な水は、ふつうには井戸が利用された。地下の水源に達している深い井戸を掘抜き井戸というが、崖下の自然の湧き水や、掘抜き井戸の水は概して水質がよく、冬は暖かく夏は冷蔵庫代わりになるほど冷たい。そのためそういった良質の水を確保している家では、水道が通ったあとでも、目的によってはそれを使いつづける。しかしそんないい水に恵まれていた人は少なく、井戸の多くは水質に不安があった。飲み水には水漉しの布を通した水をもちいる家庭も多かった。その白い布は、数日で赤茶色に染まるのだ。だから水道がひけるまでは、大きな桶に清れいな川水を満たして売りにくる、江戸時代からつづいている水屋の厄介になっている地域が、東京や大阪のような大都市には残っていた。

新政府が水道の布設を急いだのは、直接には1880年代から90年代(ほぼ明治10年代~20年代)にかけての、コレラの蔓延のためだ。江戸、東京にはもともと郊外からの上水道がひかれていた。その神田上水、玉川上水は維新後もりっぱに機能していた。井戸のかたちはとっていても、江戸っ児が「玉川上水の水で産湯をつかった」といばるように、遠く西多摩郡で玉川上水路にひきこまれ、木製の樋を通ってくるこの上水の水を汲み上げていたのだ。しかし水質に関しては、「其の源流に於いてこそ清冽透明なれ、下流即ち築地芝京橋最寄りに至っては、其の不潔云うベからざる者あり(……)」(大阪毎日新聞 1893/8/13: 1)という、大阪人からのキビシイ指摘もある。

上水の通っているのは、江戸時代の市域のぜんぶではない。玉川上水は、四谷、赤坂、麹町、麻布、芝、日本橋、京橋、牛込のぜんぶまたは一部、神田上水は、小石川、本郷、神田、日本橋、京橋、牛込のぜんぶまたは一部に敷設、と記録にある。とりわけ拡大してゆく周辺市街地の水確保は、コレラ問題とは関係なく、避けられない課題だった。

東京の近代的水道が整備されたのは1899(明治32)年1月だ(→年表〈事件〉1899年1月 「東京中心部への水道供給」1899/1)。このとき、淀橋浄水場から市中心部への給水が開始された。当時の西多摩村羽村から約44キロの水路を通って淀橋にひきこまれた水は、浄化されたのち市内に給水される。淀橋が選ばれたのはこの場所が海抜40メートル強、東京市内ではもっとも高い場所であるため。

とはいうものの、親管から各家庭の台所まで水道管をひく費用は自分もちだったからその負担は小さくない。東京市はそのため市内1,500カ所に共同水栓を敷設した。共同水栓1個を35軒の家庭が利用する、という計算だ。

外国人の多く住んでいる横浜市が、人口に比例して規模は小さいが、時期的にははるかに早く、わが国最初の近代水道として給水を開始したのは1887(明治20)年のこと。丹沢山塊に近い津久井郡三沢村で、相模川の流れを蒸気ポンプを用いて山腹の沈殿池まで汲み上げ、19カ所のトンネルを経由して市内野毛山の貯水場に送るという大工事で、莫大な経費は一時国庫の立て替えだった。こちらもはじめのうちは共用水栓利用の地域がひろく、とりわけ貧困者の多く住んでいる地域では、太平洋戦争間近まで、共同水栓で洗濯や、米をといだりしている人がいた。

共同水栓の設置場所をめぐっては、どこでも不満や悶着があった。だれにも便利な場所、というので人通りの多い街角に置かれたため、そこで洗濯などはとてもできなくなったり、逆に人目も気にせず、そこで素っ裸になって身体を拭いている労働者などがあって、巡査に追いはらわれたりした。

大阪については、つぎのような記述が最近の資料(加来良行「大阪市営水道の拡張と接続町村」『近代大阪の地域と社会変動』2009)にみられる。

大阪府営水道の通水開始は1895(明治28)年と早かったが、つねに問題となったのは隣接市町村への給水問題だった。1887(明治20)年の府営水道事業計画では、大阪市および接続町村の61万人に給水を見込んだのだが、予想を上回る市、および隣接市町村の人口増加のため、1898(明治31)年から上水配達制度というものが生まれた。これは市内居住者および船舶のために計31箇所の給水所を設け、しかし隣接市町村居住者も希望によっては利用できる、という制度だった。しかしまもなく給水能力が追いつかなくなり、市内配水を優先することになった。そのあと1914(大正3)年に竣工した柴島(くにじま)浄水池を中心とした第二次水道拡張事業でも、市内150万の居住者が対象だったため、周辺町村住民から嘆願が出された。曰く、この辺りは大半が細民であるため、売られている濾過水を購入することなどできず、悪質の井戸水や河の水を、飲用にまで用いている、など。しかし大阪市はこれを拒否している。大阪が柴島浄水池を拡張し、隣接町村住民の72パーセントを含む、最大310万人への給水可能な、第3次拡張事業を竣工させたのは、1932(昭和7)年のことになる。

1904(明治37)年の新聞には、近頃女中を解雇する家庭が増えていて、その理由は、戦時中であること、物価が騰貴しているなど経済的理由のほか、家庭に水道がひけて便利になったことが挙げられる、という記事がでている(→年表〈現況〉1904年5月 「水道と女中」朝日新聞 1904/5/23: 5)。

水道のおかげで良質の水が飲めることよりも、主婦たちにとっての実感としては、外の井戸からの水汲みから解放された喜びのほうが大きかったにちがいない。だから共用水栓の期間は、水汲みの負担という点ではポンプ井戸となんのちがいもない、女たちにとってみれば水道以前、ということになる。井戸に蓋をして、それまでの釣瓶の代わりにポンプで水を汲みあげることは、1910年代以後、かなり急速に普及している。これにはコレラ予防を含めた、衛生観念の向上ということもはたらいていたのだろう。

各戸給水がはじまり、蛇口をひねれば水のでる生活になって、洗濯をためすすぎでなく、流しすすぎができるようになり、洗面も手洗いも洗面器など不用になった。しかしもちろん水をむだにつかうことを戒め、洗面器を使用しつづける人ももちろんあった。「武人」森鴎外は、朝の洗面と歯磨き、口ゆすぎは、コップ一杯の水でこと足りると、発言している。

また1910(明治43)年の新聞は、5, 6人以上の家族がいる場合、家で風呂をたてる方が経済ということで、据風呂を購入する人が増えている、と報じている(→年表〈現況〉1910年4月 「自家用風呂の増加」朝日新聞 1910/4/1: 5)。そのため客の減った銭湯が、入浴料の値上げを考えていると。

(大丸 弘)