近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 013
タイトル 居住スタイル
解説

開化以来の服装改良論者に対して、その時期尚早を説く人たちのいう根拠に、改良はまず住居が先、という指摘があった。第一に、靴をぬいで畳の上にすわる習慣、第二に、木造家屋の冬の暖房の不完全さ、これらが西洋風にならないかぎり、衣服だけを変えることはむり、というのだった。

そのこととはべつに、居住スタイルの西洋化の、もうひとつの方向があった。それは住居内でのプライヴァシーの確保だ(→参考ノート No.117〈裸体と露出〉)。

第二次大戦以前の家政書では、日本人の住まいは日本人の伝統的な、うつくしい家族制度にもとづくもの、と強調された。「父母を家庭の中心とし、最上の主権者となし、兄弟、子姪、夫妻は、皆これに向かって無限の尊敬を払い、且つ無限の服従を表す」。また、「財産は共通にして、その分配消費は家長の特権に属す」(山方香峰『日常生活 衣食住』1907)等々という記述のなかには、家族同士のあいだに隠しごとがあったり、家族のひとりが、家長のふみこめない世界をもったりすることは、理解されにくいだろう。

より現実的には、江戸時代からひきつがれた都市の庶民の生活のなかで、たとえば九尺二間の、四畳半か六畳一間ぎりの裏長屋の暮らしに、自分だけの空間などありようがない。近世末期の江戸と京阪の風俗事情がわかる『守貞謾稿(もりさだまんこう)』が標準的としている構造では、出入りは一間幅の勝手口だけで、その狭い土間の隅が流しと水甕(みずがめ)の置き場所になる。井戸と便所は共用、明治になってからの最初の改良は内便所が一般化したことと、井戸の釣瓶がポンプ式になったことだ。1907(明治40)年には、警視庁は長屋の構造制限を出して、劣悪な住環境の改善を図っている。

しかし長屋であってもなくても、六畳一間や、六畳と三畳の家に3、4人の家族が暮らすことは、昭和になってからでもめずらしいことではなかった。女性たちはきものを肩に掛けたまま、下着をするりと脱ぎ替えることが巧みだった。こういう家の中で唯一、プライヴァシーを守るための道具は、たいていの貧乏所帯にはあった小屏風だ。

明治・大正期の庶民の住まいかたのなかで、記憶されているもののひとつは下宿だろう。もちろん学生たちを主とした地方からの上京者が多かったが、家をもつことの面倒な、ひとり者の月給とりもけっこういたようだ。下宿は、〈宿屋営業取締規則〉(1889年10月の【警察令】第16、17号が最初)の対象になっているように、結局、長期滞在の安旅館だったから、三度の食事はもちろん、掃除や片づけ、ふとんの上げさげ、頼めば着ているものの洗濯や使いもしてくれる。

明治末期の時点では、東京には本郷・神田・牛込を中心に、1,500軒あまりの下宿屋が存在していた(「宿屋下宿屋木賃宿」都新聞 1909/6/22: 1)。

1910年代(ほぼ大正初期)までは、地方からの人であってもなくても、職業人になって親の家を出るとなると、部屋借りをするか、小さな家でも一軒借りることになる。自炊も洗濯も買い物も、現代と比べると手数のかかる時代だった。1915(大正4)年8月の【婦人画報】に、結婚した夫が「お前に見せるのも恥ずかしい」と言うのでなにかと思うと、二つの行李に猿股をはじめ、ながいあいだの汚れものが一杯つまっていた、という新所帯の思い出ばなしが掲載されている。二階借りをしていた独身の夫は、洗濯が面倒で汚れ物を半年ごとに郷里へ送っていたという。この時代のひとは下着でもそう頻繁に替える習慣がなかった。

勤め人のワイシャツでも一週間に一度は替えるようにという、家政書の忠告があるくらいで、袖口や襟の汚れを気にする人はすくなかったようだ。

下宿は女中さんがなんでもやってくれるかわり、なににつけても金が出るし、洗面も入浴も便所も共同、安い下宿は銭湯に行かなければならなかった。

1920年代(大正末~昭和初頭)は、大都市生活者の住生活に新しい風の吹き出した時期だ。横浜や神戸の山の手に残るような、日本人には住みにくい居留地風建築ではなく、和風の構造に洋式生活に適した材料を使うとか、洋風のなかに畳の部屋を設けるとか、衣服では失敗したさまざまな折衷が、住居では抵抗なく受けいれられていった。ガラスをたくさん使った明るい台所、ベランダ、ピアノのある洋間、鍵のかかる子ども部屋、そして窓ごとのカーテンが、とりわけ郊外生活者の夢をふくらませた。アメリカ屋など、住宅建設に新しいヴィジョンをもつ業者と、京浜地区では1926(昭和元)年開業の東急電鉄、関西では1910年代の箕面有馬電気鉄道に代表される、私鉄各社の郊外新興住宅地開発の発展が、これをおしすすめた。

とりわけ白いカーテンレースは、少女たちの愛らしい洋服の飾りや、女性の下着のトリミングとして使われるようになった各種のレースとともに、素朴なエキゾチシズムをさそったのかもしれない。

今まで日本座敷が衣更えしたとき、障子に代わるものは、すだれでした、葭戸でありました。其れが今年からはカーテンが一般の家庭で用いられる様になって参りました。
(「日本座敷にカーテンの流行」【技芸】1924/7月)

大都市に住む中産階級でも、中から上の階級がこうした郊外文化住宅を志向したのに対して、もうすこしつましい生活のなかにいるに人々に夢をあたえたのは、1930年代(昭和戦前期)のアパートだったろう。

木造賃貸アパートであると、すでに2階建てもあった長屋との区別がむずかしいが、1910年代後半(ほぼ大正中頃)からそれらしいものがポツポツと建設され、関東大震災後から1930年代にかけてがそのピークとみられる。1925(大正14)年にはじまるコンクリート造りの同潤会アパートはなにかと例にあげられるが、これは優等生的なモデルで、戦前を通じてのアパートの標準とはかけ離れている。

1932(昭和7)年現在で、東京市内に250棟、一般の貸家は空室だらけだというのに、アパートはどこもいっぱいだという(「激増するアパート(……)」都新聞 1932/4/11: 7)。それが7年後の1939(昭和14)年には2,961棟と10倍を突破し、室数は6万をこえている(朝日新聞 1939/11/24: x)。この数字は警視庁によるが、対象が13室以上のアパートにかぎっているので、それ以下のアパートを入れると9万室になると記事は推測している。

アパートはたしかに狭いけれども、「気苦労のない鍵の生活 散歩も風呂もお揃いで 簡易と明朗への近代相」と題し、「簡易な生活だから女中も要らぬ、新夫婦は水入らずに、といっては言葉が古いけれども、妨害されることなく、ほがらかにスイートホームを楽しむのである」(報知新聞 1931/5/18: 5)。その上、むだな支出も少ないため、アパート生活者は貯金額が多く、生活は堅実、という調査もある(朝日新聞 1936/5/7: 6)。

とりわけ、アパートの存在が支えたのは、独身の職業婦人だったようだ。1933(昭和8)年に彼女たちを対象にした調査では、63パーセントがアパートを希望している。もっとも彼女たちの希望には、食堂、浴室、娯楽室等、近代的設備の付属が入っているが(→年表〈現況〉1933年10月 「独身職業婦人の住まいの希望」都新聞 1933/10/4: 2)。

1930、40年代(昭和戦前期~戦後にかけて)の木造2階建て賃貸アパートは木賃アパートと呼ばれ、戦後になると文化というようになるが、これは地域によってもつがうらしい。アパート住まいというと、それまでの借家住まいの人間からは、羨ましがられる面と、ちょっと見下げられる面とがあったようだ。アパートに住むひとには独身者が多いが、そうでなければ新婚者で、何年かたって月給も上がり、子育てとなるとアパート住まいにはおさらばする、というパターンがふつうだったのが、おなじ集合住宅でも、現代のマンションとちがう点といえる。

木造アパートの標準的構造のイメージは、入口を入ると土間になっていて、ここで履物を上履きにはき替えるので、かたわらに大きな下駄箱がある。正面か、ごく近くに2階へ上がる大きな階段があり、1、2階とも中央に広い通り抜けの廊下があって、そのどこかに共用の便所と台所がある。正面階段のほかに、階下の洗濯場や浴室に降りるための小階段がもうひとつある。ただし浴室をもたないアパートのほうが多いのは、その時代は町に銭湯がたくさんあり、せまくて暗い内湯より、銭湯のほうに人気があったため。

アパート内での悶着といえば、たいていは共用部分――洗濯場や干し場の使い方、いつも便所を汚すのはだれだ、といったことだった。たいていは各戸一室ぎりだったから、夏はとてもドアを閉めきってはいられず、なかが丸見えでもだんだん気にしないようになり、亭主たちのいない昼時など、下着姿の女房たちが廊下ごしにおしゃべりをしていたり、2階まで上がってくる商人とふざけているのを、苦々しく思うひともいたろう。

プライヴァシーということばはまだ知られていなかった。大きな旅館でさえ、隣室との境は唐紙ひとつの場合があった。アパートにかぎらず、下宿屋でも、部屋の入口にカーテンをひくという習慣がまだ一般的ではなかった。むしろ部屋のなかがいつも丸見えの人のほうが、好感を持たれたのかもしれない。しかし実際問題としては、いつも特定のだれかが洗濯場を長時間占領しているとか、となりの年寄りの大声の謡がうるさい、といった不満のほかに、いつも人の目を気にしていなければならないという、自分でも気づかないストレスも、この時代のアパート住まいにはあったろう。

(大丸 弘)