| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 002 |
| タイトル | 西洋人・白人羨望 |
| 解説 | 明治維新の開国とその後の近代化が、直接には欧米諸国の働きかけと、西洋文明への追随という基本的方向をもっていた以上、日本人が欧米人を師と仰ぎ、なにかにつけて彼らを畏れ敬う態度をもっていたことはやむをえない。明治初期の欧米人と日本人とは、すくなくとも改革と進歩に関わる部分では、先生と生徒の関係だった。西洋人は思慮深く、賢い、という日本人の先入観は案外長くつづく。1923(大正12)年の関東大震災のときに、たまたま沼津付近を走行中の急行列車が激震のため停車を余儀なくされた。この列車が名古屋に到着したのを報じた地方新聞の記事に次のようなくだりがある。「その汽車には西洋人が一人二人乗っていたが、さすがに西洋人だけあって日本人の如く狼狽せず、比較的平静でありました」(北陸タイムズ(号外) 1923/9/2: x)。 これよりすこし前、神奈川県国府津(こうづ)の海岸で投身自殺した外国人と見られる男性があった。じつはこれは名古屋出身の日本人だったのだが、新聞の表現によると「生来皮膚の色白く気高き容貌を幸いに」髪を染め英人に扮して行商をしていた(都新聞 1916/5/7: 5)。 このような西洋人観は、1937(昭和12)年という時代になってまで、「洋装というどこか知的な要素をもった外形に対して、着ている人の顔がそれほど知的でない場合は、非常な見劣りがする」といった見方があった(→年表〈現況〉1937年3月 福田晴子「洋装に教えられること」【新装】1937/3月)。 江戸時代の末、はじめて欧米人を見たころの民衆は、見馴れない彼らの風貌をものめずらしく思うと同時に、むしろいくぶんか嫌悪感を持ってもいたかもしれない。それは唐人お吉の物語にも表れている。とくにいやがられたのは彼らの毛深さだった。毛唐人――毛唐、という蔑称のおこりはそれに由来する。 最初は彼らが獣肉を食べることも嫌悪のひとつの理由で、毛唐は穢れているということの論拠になった。横浜の近郊には早い時期に屠殺場が作られ、その内部の様子がなにかまがまがしいことのように噂され、怖れられた。肉食は開化のわが国に早いピッチで普及したのだからそれもごくみじかい期間に過ぎなかったが、毛深い大男にさらに肉食者の異臭を嗅ぎとる人たちもあった。1869(明治2)年にエディンバラ公が皇居に天皇を表敬訪問したとき、二重橋において禊(みそ)ぎの祓いをおこなっている。アメリカの代理公使はこの事件を“purification of Prince of Edinburgh”と表現して本国に報告した。若い公子はたぶんおもしろがっていただろう。 ときが経過して1882(明治15)年の[読売新聞]は、東京尾張町の靴職が、数年来雇っていたオランダ人職人が気に入り、三女の婿にした、という報道のなかで、「赤髭だの碧眼(あおめだま)だの無闇に悪く云えど、馴染(なじ)んで見れば日本人でも外国人でも人情に変わりは無いと(……)」と説明している。その翌年の[団団珍聞]には、アラビヤ馬と日本馬の交配の例を引き、日本人は進んで西洋人と結婚し間児(あいのこ)を生むがよい、という主張まで現れている。 異類混合主義を博(ひろ)く人類に及ぼし、黄面人も成丈(なるた)け赤髭客と交媾し、我が卑弱怯懦(きょうだ)なる稟賦(ひんぷ)に彼が勇進収為の気性を調合したる間児繁殖して、一の間児国を現出する程に至っては、其の功益あに壮且つ偉ならずや(……)。 外国人との結婚、養子縁組は、すでに1873(明治6)年3月という早い時期に、太政官布告を以て認められていた。 唐人お吉の時代からほぼこの時代までが、お雇い外国人のもっとも多かったときだったが、実際に欧米人を見る機会はすくなく、東京都心の大きな商店で外国人が、とくに女の外国人が買い物したりすると、人だかりがするほどだった。まだ内地雑居以前だったから、外国人の居住は居留地内にかぎられていた。居留地以外は一定範囲内での遊歩や、届出をしての旅行や寺社の見学が許される、という窮屈な状態で、横浜や、東京の一部地域以外に生活している民衆が、異人さんを見る機会は本当に少なかったろう。1896(明治29)年12月の調査では、日本在住の外国人の総数が約9,200人になるが、「中国人総数4,533人、イギリス人総数1,978人、アメリカ人総数1,025人。以下ドイツ、フランス、ロシア人等欧米人全体で約4,661人」(「日本在住の外国人」国民新聞 1899/5/14: 5)とあり、欧米人では、イギリス人とアメリカ人が約3,100人を占めている。 欧米人のからだに関して、最初もっともさかんに指摘されたのは彼我の体格の差だろう。遣米使節がニューヨークで撮影した記念写真を見ても、日本の武士たちと米国官吏たちの、身長の差の大きいのにおどろく。幕末の浮世絵のなかには、ひとまわり小さい紅毛人水兵たちに向かって、大男の力士が米俵を手玉にとっている図がある。しかし1900(明治33)年の幕の内力士の平均身長が169.8センチ(→年表〈現況〉1900年1月 「大相撲幕内力士28名の体格」時事新報 1900/1/14: 6)だったことを考えれば、これはむしろ日本人絵師の虚勢であったことになる。 治外法権が撤廃され、内地雑居の実施されたのは1899(明治32)年7月12日。それに先立つ日本側のさまざまな不安のなかに、日本人も大いに肉食をして、内地雑居までには欧米人に立ち向かえるような体格になっておく必要がある、という主張もあって、東京神田には肉食推進の組織が作られた(→年表〈事件〉1886年10月 「洪養社設立」絵入朝野新聞 1886/10/15: 2)。 20世紀に入るころの日本人も、生きた外国人に接する機会は、明治初期と比べてそれほどふえたとは考えられない。外国人のイメージについての情報は、写真製版の発達によって豊富に提供されるようになった、 新聞、雑誌の掲載写真、それ以上に映画だったろう。 おそらく映画で見る白人の女性の美しさは、美人画家のだれかれも素直に認めている。「舶来臭さ」を毛嫌いしていた伊東深水は、七三髪や耳隠しの当世風の髪を生唾が出るほど嫌いと言いながら、しかし「あの蝋のように美しい肉体を所有している西洋婦人なら格別」と言った(→年表〈現況〉1922年6月 「夏の婦人美」東日マガジン 1922/6/25: 8)。 また深水の師、鏑木清方もこんなことを言っている。「現在で私が一番美しい印象を婦人からうけるのは、映画、ことに西洋物の映画に見える美人からであります。(……)西洋物の映画に出てくる婦人に、美の陶酔を味わうことがよくあります」(→年表〈現況〉1923年5月 「私はどんな婦人に最も優れた美を感ずるか」【婦人世界】1923/5月)。 知られているように、比較的若い時代の谷崎潤一郎の作品には、率直な白人羨望があって、バタ臭い、混血児(あいのこ)風の顔立ち、赤っぽい頭髪への賛美が、いろいろなところに現れる。実際、震災前彼が住んでいた横浜には、当然のことながら混血児が多くいて、そういう子どもたちが、横浜から引っ越していった先の学校でいじめられている、という母親からの訴えもあった。 白人羨望は第二次大戦期にはもちろん、少なくとも表面上は消滅したにちがいない。1941(昭和16)年以後は、ごくわずかのドイツ映画以外スクリーンで外国女性の姿を見る機会もなくなった。どう見ても東洋人としか見えない、しかし日本人としてはかなり赤毛の娘が、戦時中の街頭で、「どうしてお国に帰らないの?」と尋ねられたという話があるくらい、白人の男女をじっさいに見る機会を日本人はもたなかった。 それが敗戦と同時に一変した。堰を切ったように外国映画、ファッション雑誌、そして男女の占領軍兵士を初めとする、大量と言ってもいい白人種のイメージが、かつての開化のときとは比較にならないくらい、日本人の深い劣等感の前に立ちはだかったのだ。 (大丸 弘) |