| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 003 |
| タイトル | 廃刀令と士族 |
| 解説 | 明治の新聞小説では、登場した人物の風貌を簡単に表現する便法として、何々風、という言いかたをすることが多い。そのなかで士族風、という言いかたがよく使われるのは、だいたい1880年代(ほぼ明治10年代中期)までのことだ。遊び人風とか、商人風とか、一見紳士体の、とかいう表現は、その後も相変わらずつかわれている。商人風とあれば、つづけて縞のきものに小倉の帯、前垂れがけで云々、というような説明のつくことがあるが、士族風という人物にはそれがまずない。おそらく、士族風とは着ているもの、身につけているもののなにかにではなく、その物腰に、ある特色があったのだろう。 御一新後の東京の町を行く人のすがたで、江戸時代の人間とのはっきりした違いは、男の髷と武士の帯刀のなくなったことだ。人妻の眉剃り鉄漿(かね)も同様だが、これは頭の上に載せる丁髷(ちょんまげ)や大小の刀ほどにはめだたないのと、消滅にはもうすこし時間がかかった。丁髷は明治10年代になっても執着している人がまだいたようだが、帯刀については、1876(明治9)年3月28日、今後、大礼服着用者、軍人、警察官吏等制規ある服を着用した者以外の帯刀を禁ず。違反のものはその刀を取り上げること、という太政官府令第38号によって禁止された。じつは江戸の町ではこの廃刀令以前にも、刀をさしている人間はごく少なくなっていた。1872(明治5)年頃のある観察では、百人に一人ぐらいと言っている。もともと江戸そだちの旗本や御家人の若侍などは、刀を重たがってなるべく細身の、飾りのような刀を好んでいた。5年前の1871(明治4)年8月には、太政官布告第399号で、散髪、脱刀が勝手、とされたが、その翌年の東京のはやり唄に、「二本さしたるお方を見れば 医師に神主相撲取」と歌われる状態になっていて、「士は悉(ことごと)く脱刀し昨日の風習地を払う如くなる文明進歩の光景を知るに足る」(東京日日新聞 1872/5/10: 1)とある。開化当初の5年たらずのあいだに、丁髷と帯刀とは先を争うように消えていった。 しかし一方では、帯刀に対するつよい執着もあった。なにかにつけて開化の風の吹くのが遅れた地方武士のなかに、そういう気風がつよかったのは当然で、廃刀令後も地方の旧藩士の家では、外出する息子に、お触れが出た以上それに逆らうのは憚(はばか)りがあるが、男が外に出るにはそれに代わるものが必要だと言って、ふところに隠すようにと、九寸五分の短刀をそっとわたす母親もいたそうだ。 見た目、という点からも、長年両刀をたばさんで歩くすがたを見なれた目には、丸腰は間がぬけて見えたにちがいない。明治も30年頃になっての老士族の回顧談に、「今日は見馴れて左ほど見にくしとは思わざれども、羽織袴は封建時代双刀又は脇差を帯したるときの服装なり、一本も差さずして羽織袴にて歩く様は、往事の座頭の年礼の如し、あまり感心したる風にはあらず」(朝日新聞 1899/8/8: 3)とある。 腰が明(あ)く、という言いかたもあった。廃刀令とおなじ年に初演された歌舞伎の実録仙台萩のなかに、「侍分にて使者に参るに、腰が明いて見苦しい、是れを汝に遣はすぞ(と刀を差し出す)」というセリフがあるのは、作者の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)に、いくぶんか廃刀令への意識があっただろうか。 しかし見た目の問題ではなく、男が武器ももたずに敷居をまたぐことに対する不安は、杖のなかに刀身を隠して携帯する仕込杖をはやらせた。西南戦争のあとになっても、短気なもと侍の、仕込杖のすっぱ抜きの事件が、べつにわけもなく昔どおり一本さして歩いて、刀を没収される事件とならんで、新聞の三面記事としていくつかのこっている。 『半七捕物帳』の「湯屋の二階」のなかで、怪しい男の左足首が右より太いことを流しでたしかめて、男がほんものの侍だと、半七が判断するところがある。大小2本の刀は、重いものになるとあわせて10キロ以上になる。足首が太くなるだけでなく、長時間これを片方の腰に差しているためには、腰の構えも必要だ。そればかりでなく、細身の刀を喜ぶようなにやけ侍とちがって、相応に撃剣の稽古をつんだ武士であると、竹刀、木刀、真剣など打ち物をもっての修練と、不意にどこから打ちこまれても対処できる油断のない身構えが、ふだんのなにげない物腰にも表れないはずがない。士族風、と言われるらしさのいちばん元になるのは、その点だったろう。 江戸時代の武士は役職をもっていたにしても、概していえば閑だった。時代小説にあるような、抜刀を迫られるような事件など滅多になかったはずだから、主人や、自分より身分の貴い者に仕えて、なにごともきめられた枠から踏みださないことをなにより心がけた。僧侶を除けばもっとも教養ある階級であり、幼いときから躾は厳しかった。よく西洋の騎士と比較されるが、ランスロットやドン・キホーテといちばん違う点は、武士たちが古典的教養と、体制維持のための、ビジネスマン的常識を要求されていたことだろう。新渡戸稲造の『武士道』には、そのような穏健な社会人としての、ある望ましい人間像がえがかれている。 しつけとしては、自分のことはできるだけ自分でする、それはものを粗末にしないのと同様、ほんらいは戦陣の場での心得だったろう。武士、というより軍人としての自覚を死ぬまでもち続けていた森鴎外は、朝、顔を洗って口をゆすぎ、歯を磨くの茶碗一杯の水でぜんぶ用がたりる、と書いている。侍は自分の手で髪を結い、お城から帰っての着替えは自分でし、羽織も自分の手で畳んだ。自分の家でもあぐらをかくことはなかったし、畳に寝そべるようなことはしない。着るものや、食べるものに好みをいうことはなかった。戦前は乃木(希典(まれすけ))大将の母という逸話が、よく子どもたちに聞かせられた。幼い希典がおかずの好き嫌いでも言おうものなら、翌日からずっとそのおかずを食べさせられたとか――。 明治初年の旧武士階級、つまり士族の人数は、範囲の区切り方にもよるが、1876(明治9)年の段階で1,895,000人あまり、人口全体のほぼ5.5パーセントだった(「明治九年の戸籍調べ」『東京経済雑誌』1876/7月)。 戸籍から士族平民の称号を除くべしという主張も早くから見られ、時代が1920年代(大正末~昭和初め)に入るころには、いわゆる大正デモクラシーの波もあってか、その法案が議会に提出された。士族たちの自分たちの身分への誇りはつよかったから、これに対しては全国約25万の士族が立ち上がり、「士族の称号は軍人が手柄によって与えられる恩給や勲章とおなじである」として、提出議員の横田千之助のもとには、昔忘れぬ腕で一刀両断に切り捨てる、というたぐいの脅迫状まで、数千通の抗議が殺到したそうだ(→年表〈事件〉1923年3月 「士族の称号廃止に対する猛反対」都新聞 1923/3/27: 10)。 (大丸 弘) |