近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 006
タイトル 教育制度の整備
解説

明治新政府による教育に関する施策は、1872(明治5)年の学制(【太政官布告】第214号、ここで学制ということばは、この布告を指す狭い意味に用いられている) の公布にはじまる。しかしこれは混乱していた当時のわが国では時期尚早だったようで、ほとんど実効性のないまま、1879(明治12)年の教育令に引き継がれて廃止された。学制、教育令、翌1880(明治13)年の改正教育令への変転が、教育の近代化への志向と、それに抵抗する天皇側近の儒学者との葛藤を反映していることはよく知られている。

天皇の侍講(じこう)である儒学者元田永孚(もとだながざね)は、欧米流の思潮に対抗するため、1878(明治11)年に「教学大旨」を天皇の意志として公表した。これはのちの教育勅語につながるもので、仁義忠孝という儒教道徳が、わが国の教育と学問の根源である、と説いている。

忠孝が教育と学問の根源という考え方は、その後日本が近代的な国家へと発展してゆく過程で、日本的富国強兵思想の支えとなる。

制度上の教育はべつにして、民衆のレベルで、日本人がもともと読み書きに熱心な人たちであったらしいことは、いろいろなデータから判断されている。教育水準比較の手がかりとされる識字率においては、江戸時代から、日本人が高い数値をもっていたことが推測されている。男は49~54、女は19~20それぞれパーセント、江戸であると10人のうち7、8人は読み書きができた、など。これは同時代のイギリスやフランスの民衆よりも高い数値かもしれない。とりわけ江戸のような商業都市の場合、商人はいうまでもないことだが、手業の職人であっても読み書きがまるでできないとなると、仕事の上で不便が生じる。またこれも仕事のうちに入るのだが、芸者や遊女たちでさえ、たいていは自分の手で客に呼び出しの長い手紙を書いていることも、驚きにあたいする。

しかし単に字が読めることと、教育の可能性とは別だ。江戸の民衆の識字とは、仮名書きの貸本や、苦労して高札の四角い文字を読める程度までで、武士階級を除けば、それから先へ進む可能性をほとんどもっていなかった。鎖国という制度が、知識や情報においても、外に向かって閉ざされていたことは、いうまでもない。その閉鎖、あるいは閉塞は、ある境界から外、あるいは上に向かう視野にとっても、おなじことだった。だから江戸時代的な知識は、四書をぜんぶ諳んじているとかいう、分量で計量されるような、物知り以上のものにはなりにくかった。

江戸幕府は民衆のあいだに普及していた寺子屋に対しては、側面から、消極的支援をする程度だった。民衆が読み書きや、かんたんな計算のできることは、為政者にとっても都合がよい。明治新政府が取り入れようとした欧米並みの教育制度とは、それとは根本的にちがうものだ。それは人間の知的可能性を最大限にのばそうという意図のものだ。仁義忠孝が根源などという、思考や探求になんらかの縛りをかけたり、終着点めいた命題をあらかじめきめておくようなことは、それだけで学問とは矛盾する。もっとも1880年代(ほぼ明治10年代)に政府の中心にいた、伊藤博文をはじめとするリーダーたちは、もうすこし実利的だったはずだから、そこまでは学問研究を自由には考えていなかったろう。

ともあれ欧米に倣った学校制度が発足した。教育令公布から約15年を経た1893(明治26)年に、学齢児童数100人中、就学者は50人強、うち女子は15人強、というデータがあり、状況は遅々としていた。そのため女子の授業内容を実生活の必要に近づけることが図られ、裁縫が加えられた。

1907(明治40)年に、義務教育の年限が尋常小学校6年、高等小学校3年と改正されるまで、尋常3、4年、高等2~4年と幅をもたせてあった。これも子どもをそれほど学校に上げたがらない家庭に、配慮したためだろう。

子どもが学校に上がるということが当たり前になった段階でも、十いくつにもなった女の子が、家のことや家事の修行もせずに、日々袴を穿いて学校通いをする、ということに慣れるには、もうすこし時間がかかった。女学生への偏見、とりわけ役にもたたないことを教え込まれているという批判と、彼女たちの素行に対する、その時代らしい悪口が多かった。1899(明治32)年の全国高等女学校校長会議において、ときの文部大臣菊池大麓が、「女子教育の目的は、あくまでも女性が結婚して、良妻賢母になることに適せしめるのを目的とする」といっているのも、娘を学校にやることを躊躇する気分がまだ濃厚だった、その時代の視点で理解する必要があるだろう。

生活に直接役立ちそうな知識や技能を身につける、ということのほかに、学ぶことは、自分の頭でものを考えることや、知ること自体を追い求める歓びを教えてくれる。知識の奥深さを感じて、そのなかにもっと踏み入りたいと思う人もあれば、身の廻りのものごとになんの疑問ももたない人もある。新しい学校制度は、その人その人の要望や能力に応じられるような、段階的な構造をもっていた。

就学人口が増えるとともに、人々のあいだに新しい身分格差も生まれてきた。それは教育の格差だ。芸者相手のお座敷遊びでさえ、むかしはそんなことは気にもならなかったのに、女たちがあまりに無智で、無教養なことが、永井荷風のようなインテリには我慢できなくなってくる。

(大丸 弘)