| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 001 |
| タイトル | 和・洋服の比較論 |
| 解説 | 明治開化期の西洋服装の受容も、港湾の築造、鉄道や電信の敷設、軍事や行政体制の整備とおなじように、必要に迫られて先進欧米諸国にひたすら追随する、という部分が先行し、突出していた。 だからそういう先行部分、皇居や赤坂霞ヶ関周辺の、公や官という字のつく人々の洋装化が一段落すると、さしあたっての必要をもたない多くの日本人の洋装化のテンポはにぶくなり、衣文化の二重性の時代が半世紀近くもつづく。その半世紀のあいだ、洋装がいいか和装がいいかという議論がくりかえされた。この議論はもちろん日本人の衣服改良、あるいは改良服の議論の前提となる。 衣の問題にかぎらず、異なった地域、文化のなかの特定の風俗現象を比較するとき、比較する人がそれぞれの地域の風俗を正しく理解しているかどうかは疑わしい。文化のテーマのなかでも、言語や宗教とちがって、衣習慣はとりわけ流動的なものだ。また身分やTPOによる差異も大きい。当然、比較のしかたのまちがっている議論が多かった。 1880年代(ほぼ明治10年代)まで盛んになされた、洋服は羅紗を必要とするから、羊毛の生産が困難な日本では莫大な国費の流出がある、という議論もそのひとつ。むしろ日常に洋服が浸透しはじめてから指摘された、わが国の気候が西洋と比べて寒いから、洋服は夏のあいだだけのもの、という議論もそのひとつだ。 また、西洋服を和服の常識からあまりに固定的に考えて、スタイルのヴァラエティ、とりわけそのファッションに理解の乏しかったことも大きい。 1880年代から1890年代にかけて(明治20年前後)の初期の比較論者は、夜会で出逢う西洋女性のドレスの、ひろい胸あきや、とりわけコルセットを非難した。コルセットによる腰の緊縛は日本女性の幅広の帯よりも有害だとして、中国女性の纏足(てんそく)と同様のものとしている。これはいうまでもなく、批判する日本人の多くが、鹿鳴館式フルドレスの西洋女性しか知らないためだった。鹿鳴館時代(1880年代後半)は、欧米における バッスルドレス(bustle dress)の流行期にあたる。 1900年代(ほぼ明治30年代)に入るとウエストはゆるめの方向に向かい、やがてポワレのアンチ・ウエストを経たのち、1920年代(大正末~昭和初め)の筒型ドレスの時代になって、西洋服攻撃の大きな根拠が消滅した。しかしもちろん1880年代でも、欧米女性のだれもが、日常的に胸や肩を露わに、胴を蜂のように締めつけていたわけではない。それよりも豊かな胸郭と、比較的くびれた胴は、白い皮膚、窪んだ眼窩同様、コーカシア種族の人種的特徴なのだから、この辺をもうすこし考えたらよかったかもしれない。 また、コルセットでの極端な緊縛は19世紀欧米社会の、いわば階級的流行であり、我国がそれを学ぼうとしていたまさにその時期は、そうした階級的流行に対する欧米人自身による反省や攻撃――アンチ・ウエスト運動――のもっともさかんな時期だった、という知識までを、当時の日本人に求めることは無理だったろうが。 日本人にとって西洋服装のもうひとつの難点は、それが体型にしたがった複雑な立体的構造であるために、家庭での製作がむずかしい、ということだった。これは1920年代(大正末~昭和初め)、街で和服の男を見かけることが少なくなり、女性にもチラホラ洋装が眼につくようになったころ、わが国にも将来はきっと洋服の時代が来るから、もう和裁のお稽古はほどほどにして、これからは洋裁を身につけるべきだ、という提案につながる。この時代までの日本人は、家の者の着るものは原則として母や妻の手作り、という習慣を守っていた。そのため初期の裁縫書のなかには、男子のジャケットの作り方までを紹介しているものがある。この問題を解決したのは結局、安くて良質な既製服の普及と、むかしと比べて日本も、日本人ひとりひとりも豊かになった、という経済的条件だろう。 西洋服の構造が複雑、ということの関連でいえば、単純で変わりようのない和服に比べ、全体のシルエットの点でも部分的にもヴァリエーションの豊かな西洋服は、着る目的に応じての種類が多く、また流行による変化もはげしく、不経済だ、という攻撃があった。着る目的に応じてそれぞれに適した服がたくさん要る、という点はある程度まで事実だろうが、日露戦争、あるいは欧州戦争以後の、中流かそれ以上の生活をしている女性にかぎっていえば、こういうときに着る、あんなときに着ようと考えて、箪笥のなかに眠っている和服の数は、けっして少なくはなかったのだ。 一方、和服に対する批判のいちばん大きいものは、裾が乱れやすい、ということだった。打合わせ式の衣服が打合わせ部分で開きやすいのは当然だ。日本人は男女ともそういうタイプの衣服を、千年以上不自由もなく着続けてきた。それが急に気になりだしたのは、前垂れも巻かない階級の女性に、自分の足で歩いて外出する機会がふえた、ということだろう。とくに裾の乱れを問題とした女性の多くは、教育者か、そうでなくても名流婦人といわれるような階級の人だった。 批判の第二は女の帯だった。帯は打合わせの衣服を身体に固定する目的のものだが、だんだんと幅広くなり、地質も分厚く、結び様も技巧的になったため、ほんらいの目的を半ば失った。装飾化した大きくて重い帯は、自由な動作の妨げになり、コルセットのように苦しく、生理的にも悪い影響を生む、と。 もっとも、帯が健康に良くなく、活発な動作を妨げるという批判に対しては、それは締めようが悪いので、慣れたひとであれば帯はすこしも苦しくないし、事実、あの帯で牛屋の女中のような激しい労働をしている人も、芸者のように踊りを踊る人もある、という反論があった。 ある種の瘢痕や入れ墨、また纏足のように、できれば逃れたいと、当人自身が思うような習俗もあるが、19世紀後半の欧米におけるコルセットのように、手厳しい、筋の通った批判にもかかわらず、すこしでもほっそりしたウエストをと、苦痛を厭わなかったのは女性自身だったし、小柄でひ弱な日本女性にとっての帯も同様だったようだ。 日常化した習慣については、それにすでに慣れているひと、とりわけ幼いときから擦りこまれているひとと、そうでない批判者との距離は大きい。生まれたときから着物を着馴れた人にとって、裾のみだれや帯の重さなどは気にもならないだろう。 それよりも、その時代の人々の眼にも、夜会での欧米人の堂々とした優雅さと比べて、洋装したときの日本の紳士淑女の、立ち居振る舞いにも不慣れな、哀れな貧弱さが、情けなく映らなかったはずがない。西洋風に着飾って、芥川龍之介の『舞踏会』に登場する明子のような例外はきっといたにちがいないが、むしろビゴーの描いた、猿のような外見の日本紳士たちを想像する方が事実に近いだろう。心ある人――恥を知る人はむしろ「きものに逃げ込んだ」のだ。 男については眼をつぶるとして、せめて日本の女は、着馴れた和服を捨てるべきではないという信念のようなものは、帯や裾の乱れの議論や、改良服の工夫などとはレベルの違うところで受け継がれていった。1888(明治21)年11月の[都新聞]の論説は、和服と洋服の利害をさまざまな観点から論じた最後に、要するに和服の似合う人は和服を着るべく洋服の似合う人は洋服を着るべく、人々の好きに任せておけばよいが、「どちらかとお尋ねあればまず和服の方に団扇を挙げざるを得ざるなり」(→年表〈現況〉1888年11月 「日本女服論〈承前〉」都新聞 1888/11/23: 1)と、正直なところを言っている。おそらくこれが、この時代と、そのあとかなり長いあいだの、和服を見馴れた日本人の正直な結論だったろう。 (大丸 弘) |