| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 017 |
| タイトル | 暖房 |
| 解説 | 過去1世紀のあいだに、とりわけ大都市の気温が上昇していることは、すでによく知られている。近年は暖冬というのが平均気温のようになっている。 1876(明治9)年1月13日に、東京市で-9.2度を記録した(『理科年表』 以下おなじ)。6大都市中では京都市の1891(明治24)年1月16日の-11.9度が最低。ただし最低気温がすべて19世紀、というわけではない。 東京では1883(明治16)年2月7から翌日にかけては40年来という豪雪で、浅いところで50センチ、風の吹きだまるところでは、5、6尺(170センチ)に達した。夜に入ると銀座は人通りまったくなく、翌8日は馬車、鉄道馬車すべて休止、新富座も休業した、と。巡査の市内巡行にさいしては、草鞋でも差し支えない旨、通達があった(→年表〈現況〉1883年2月 「大雪時の巡査の市街巡行」読売新聞 1883/2/9: 2)。 大阪は雪の少ないところだが1907(明治40)年2月11日に25年来という大雪が降った。このとき市中にたくさんの雪だるまがつくられ、そのでき栄えが番付になって【風俗画報】に掲載された。東の横綱は北区新門筋につくられたもので1丈8尺3寸(5.54メートル)あり、ほかに1丈を超えるものが18体あった。 暖房は農村部では全国的に囲炉裏がつかわれたが、都市部では火鉢がふつうだった。火鉢は陶器製、木製、金属製といろいろあり、家庭では陶器でできた円形のものが多かった。陶器は火鉢ぜんたいが温かくなり、小さいものだと抱くようにして暖をとることができる。小形のものにあまり炭をいれると、底の部分が熱くなりすぎて、畳の色が変わったりする失敗があった。また陶器製の火鉢のすこし大きめのものには、たいてい平らな縁があって、煙管などをチョイと置いておくのに便利だった。長火鉢のあるのは、もう昭和に入った頃には、東京でも下町とか、年寄りのいる家に多かったろう。 火鉢には炭をつかう。炭は火鉢のなかでも着火できるが、ふつうは七輪で、消炭と細い粗朶(そだ)を使って火をおこす。火がおこると、十能に入れて火鉢までもってくる。都市ガスが家庭に普及するまでは、煮炊きは七輪でするのがふつうだった。七輪には練炭や豆炭を使い、とくに練炭は1個で、一日の煮炊きがぜんぶできるから重宝だった。 七輪と火鉢を兼ねたような練炭火鉢というものもあった。冬の朝は、竈(かまど)に火をつけるのといっしょに、七輪で練炭に火をつけ、裾のほうが赤く着火した練炭を練炭火鉢に移す。練炭は火つきがわるいので、物わかりのわるい人は、「練炭」というあだ名をもらった。その代わり炭とちがって、火加減を調節していれば、一日部屋のなかを暖めてくれたうえ、晩の支度にも役だった。練炭はしかし臭うのが難点だった。練炭を車のなかに持ちこんで、練炭自殺というのも一時流行った。 しかし貧乏所帯の暖房の主役は炬燵だったかもしれない。狭い家ではどこへでも簡単に持っていける置炬燵がふつうだったが、家族の人数がふえてきたり、すこしゆとりができた家では、掘炬燵をつくった。畳半畳よりすこし小さいぐらいに床(ゆか)を切りさげて、その底に30センチ四方くらいの火床(ひどこ)をつくる。火床のまわりは板敷きで、ここに足をおく。結果的に一種の腰掛生活になるので、若い人はよろこんだし、年寄りにも気にいられ、1930年代(昭和5年)以後急速に普及した。どてらを着て掘炬燵に入って、すきな講談本でも前においてうつらうつらしているのは、第二次大戦前の、老人の至福のときだったかもしれない。猫が掘炬燵のなかに長いこと入っていて、フラフラになることもあったという。 ストーブは洋風の建築か、壁にチャンと排気口を作った洋間でなければ置けなかったので、寒冷地以外では、たいていの人は学校や病院、公共建築物のなかで見るだけだった。 1938(昭和13)年の冬を前にして、[朝日新聞]に「衛生上から見た室内の温度」という記事が出た。このころはまだ、衛生ということばを健康の意味にもつかっていた。それによると、住居は18~20度、寝室は12~15度、軽労働は16~18度、外出服着用の場合、停車場、寺院10~15度等となっていて、ほぼ現代並みだ。しかし戦争が深みに入ってきた1940(昭和15)年の[東京日日新聞]では、「だいたいふつうの家庭では、摂氏13度か14度で、冬はこの辺のところに室温を保つことが理想とされています。しかし局所暖房では、16、7度までは家庭でも上げてさしつかえないようです」(→年表〈現況〉1940年11月 「冬の理想的室内温度」東京日日新聞 1940/11/12: 4)となっている。この記事の見出しには、「皮膚の抵抗力で木炭の節約」とあった。 わが国で寒さを凌ぐ方法の第一は、皮膚の抵抗力で、第二は我慢、だったかもしれない。 戦争以前に盛んに勧められたのは、冷水摩擦と、乾布摩擦だった。夏のあいだからそれで皮膚を鍛えておけば、冬になっても風邪もひかず、衣服1、2枚は省いて過ごせる、という。一年中パンツ一枚で過ごす村長さんというのが紹介されたりした。 日本の在来的暖房は、暖める道具がなんであるかを問わず、その道具自体と、その周囲だけを暖める。だからその道具から離れれば寒いし、道具のおいてない部屋はいうまでもない。欧米の寒冷地のように室内、もしくは屋内全体を、一年中ほぼおなじ温度にしておこう、というのとはちがう。1920年代(大正末~昭和初め)にはこの点に着目して、日本人は冬になれば衣類を厚く着込んで、家のなかでもある程度は防寒の恰好をしていた。だから外出するときも大仰な外套など着る必要がなかったようだ。 (大丸 弘) |