近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 012
タイトル 舶来
解説

舶来品とは外国から輸入した物品をさすが、現代の日常語としてはほぼ死語になっている。鎖国だった江戸時代のわが国は、当然自給自足だった。もっともだいじな生産物の米も何年かおきの地域的な凶作をべつとすれば十分の収量があり、明治の初めは輸出品の一部でさえあった。その時代のわが国にとって外国からの輸入品とはすべて、それまで通りの日常生活からみればなくてもすむようなもの――贅沢品だった、といってよい。

おそらくどんな時代、どんな国にとっても、遠くの国からもたらされた品物はめずらしく、貴重で、ときにはふしぎなものなのだろう。ヨーロッパ人にとっては新世界アメリカの野菜や嗜好品が、アメリカ人にとってはロンドンやパリのファッションが、こよない夢をもたらした。それは江戸と上方のあいだでも言えた。ただし、それが単に夢をはぐくむ贅沢品でなく、また贅沢品であったとしても、それ以上の実効的な価値をもつもの――南アメリカの大量の銀のような――であることもある。

幕末明治のわが国への舶来品の多くは、文明開化にとってなくてはならない道具、という大きな価値をもった贅沢品だった。舶来嫌いのひとは多かったし、その程度も現れかたもさまざまだったが、いくら外国人のもたらしたものを嫌っても、いまどき弓や刀で戦いができるとはだれにも思えなかったのだから、そこに心の葛藤があった。昭和という時代になってさえ洋服嫌いの老人はいて、ことに洋装の女性を眼の仇にするひとはけっこうあったらしい(→年表〈現況〉1939年3月 「婦人の洋装を廃せ」報知新聞 1939/3/17: 2;→年表〈現況〉1942年3月 「洋装婦人の精神」朝日新聞 1942/3/31: 2)。

アイロン髪やパーマネントウエーブ反対も、その実生活上の有効性を無視しての、感情的な外国嫌いが大きな理由だったから、もうすこし醒めたあたまをもっている行政は、第二次大戦期の軍部でさえ、女性の洋装はもちろんのこと、アイロン髪も、パーマネントも、それを禁じようという意図などもったことはなかった。

舶来品は一般に、それを生産する国でも上質の品だった。それはひとつには手数と費用をかけて輸入しようというものに、あんまり安物は割にあわないためだ。時計でもカメラでも石鹸でも香水でもネクタイでも、日本ではとても真似のできない、精巧で、また魅力的なデザインの商品が多かった。舶来の商品は金のかかる美人の女房のようなものだった。

一方、江戸時代以来の日本人に負わせられただいじな美徳のひとつは、質素倹約だった。ずっと後の時代になっても、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」を経て、1960年代の高度成長期や、70、80年代の消費革命の時代になって価値観が転換するまでは、とにかく贅沢は悪いことだったのだ。

舶来品の輸入制限を唱えていた[郵便報知新聞]の1879(明治12)年の記事を見ると、愛知県春日井郡の42ヶ村は先ごろより一致して「倹約示談」をとり決め、西洋風俗、唐物を排斥することにしているとある(→年表〈現況〉1879年9月 「四十二箇村倹約示談の箇條」郵便報知新聞 1879/9/18: 2)。また岐阜県の大垣でも、有志が「金鉄」という結社をつくり、社員は舶来品を一切用いず、輸入を減じ、国産を奨励する誓いをたてた、とある。明治10年代は比較的農村の豊かな時期だったので、都会以外にも舶来のめずらしい品物――おそらくはせいぜい洋傘とか、ケット(毛布)とか、時計程度のもの――が入りこんだのだろう。古い美徳である倹約のさしあたりの標的が舶来の品々になり、感情的な外国人嫌いがそれを煽ったにちがいない。

輸入を減じ国産の使用を奨励する、という命題は金鉄社のモットーであるだけでなく、この時代の心ある日本人の抱いていた念願であり、懸念でもあった。輸入超過のために多くの金銀が外国に流れてゆく、という懸念だ。当時の日本人の中には、山吹色した大判小判や、千両箱が、蒸気船につみこまれて外国に持ちさられてゆくといった、具体的なイメージをもつひともあったようだ。

金の海外流失は事実だったが、それは輸入超過のためというよりも外債の利子支払いのためだった。1912(明治45)年1月24日の衆議院予算委員会で、大蔵大臣山本達郎はつぎのようなことを述べている(都新聞 1912/3/25: 5)。

わが国の貿易外収入は年間せいぜい三千万円であるのに対して、外国に支払う公私債券の利子は九千五百万円に達する。差引して日本の金が年々七八千万は国外に出てゆく。これは貿易の収支がほぼ平均とみてのはなしだ。したがって一方では輸出を奨励するとともに、外国からの輸入を防ぐため、お互い心してできるだけ外国のものを使用せぬという方針をとらなければならない。

ここでも舶来品は悪、という観念が強調されている。しかし幸いにもまもなくはじまった欧州大戦は、国家経済のうえのこうした懸念をかなり減殺するのに役だった。

開化後のしばらくのあいだの主要な輸入品は、ラシャ、サージ、モスリン、金巾(かなきん)などの布帛(ふはく)類を含めた工業製品だった。なかでもラシャのように、その品質の点で舶来の栄光を長く保ちつづけた商品もある。しかしそのほかの多くは、やがてわが国のめざましい工業化のために輸入品目から消えてゆく。モスリンの輸入も1915年を最後にして終わった。ラシャ類についてさえ、1931(昭和6)年に商工省は『舶来品より優良なる国産品』を公刊して、英国製と遜色ない国産の洋服地と推奨している。

(大丸 弘)