近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 010
タイトル 男と女
解説

1872(明治5)年の東京-横浜間の鉄道開通に備えて公布された〈鉄道略則〉の第8条では、婦人のための車両への男子の立ち入りを禁じている。もしこれが実現していたとすると、最初の婦人専用車ということになる。婦人専用車両については今日でも賛否の意見が分かれる。体力の点では、男性に比べて女性が劣ることは事実だから、弱い者を保護するのは当然のこと、とみる見方と、これはむしろ一種の差別につながるのではないか、という異論がある。〈鉄道略則〉の場合、欧米の先例に倣ったにすぎないのだろうが、この時代の男たちの、一般に女を見る眼がどうだったかを理解しておく必要がある。

江戸時代の習慣を受けて、明治・大正期もまた、身分にかかわらず男と女が交際する場はかぎられていた。肉親や使用人をのぞけば、男と女がことばを交わす機会さえすくなかった。落語に、若い男女が路地で立話をしているので、癪にさわって水をぶっかけてやったら、兄妹で引っ越しの相談をしていた――という枕がある。じっさいに兄妹でも、若い男女が並んで外を歩くのはおたがいに嫌がったものだ。

若い男が最初に接触する女性は、たいていは安い娼婦だった。そこでは男はお客さんだったし、敬意や憧れを感じさせるような女性は稀だったろう。むしろ男たちは、そこである種の女性蔑視をからだで覚えて、大人になることが多い。

この時代、若い女性が道路工事中の道端などを歩こうものなら、耳を塞ぎたいような、卑猥なからかいを浴びせられるのがふつうだった。その無遠慮で具体的な雑言によって、娘はけっこう一種の性教育をうけたかもしれないと、言う人もあるくらいだ。

男と女のあいだにはできるだけ距離をおかなければいけない、というのが常識だった。

1883(明治16)年に、それまで男女混用だった新橋停車場の待合室に、一等室にかぎってではあるが、女性のための別室が設けられた。1888(明治21)年には、上野の帝国図書館に、婦人のための閲覧室ができた。映画館はとりわけ中が暗いということから、1917(大正6)年に公布された〈活動写真興行取締規則〉のなかで、上映フィルムを甲種、乙種の2種にわけ、15、6歳以下の者に観覧を許さない甲種フィルムを上映する映画館では、男子席と女子席を区別すること、同伴で入場の者は混合席に入る、と規定した。この規定が取り消されて男女席の区分が撤廃されたのは、20年後の1937(昭和12)年のこと。

1878(明治11)年に公布された教育令では、体罰の禁止、授業料の徴収は便宜に任す、等々の規定のほかに、小学校からの男女別学を示し、1897(明治30)年の文部省訓令でも、尋常高等小学校での、学級、教室、学校における男女区分を、くりかえし指示している。京都府では1884(明治17)年1月に学務部長から、「公立小学校生徒の男女雑居は往々教育上に弊害あるを以て之を区別し席を異にせざるを得ず」との通達があり、これが実行されたが、上京区のある小学校では、女生徒の教場の椅子机を撤去し、畳を敷いて座らせた、という。

一方で、機会均等を求め、それを自分の努力でかちとっていった女性たちも多い。1922(大正11)年には、松山市出身の兵頭精子が、三等飛行士試験に合格、日本最初の女性パイロットになった(→年表〈事件〉1922年3月 「日本最初の女飛行士誕生」読売新聞 1922/3/30: 4)。1928(昭和3)年には、アムステルダムのオリンピック大会女子陸上200メートルで、人見絹枝が銀メダルを獲得した。1933(昭和8)年には、小野甲子が女性で初めての講道館初段となる。

趣味や運動の世界では、女性に対する世間の目も比較的寛容だったかもしれない。女らしい趣味という、編物やフランス刺繍といった範囲の外へふみだした、写真や登山、テニス、乗馬といった世界も、女性の前にひらけていた。自転車人気にのって1900(明治33)年に発足した、女性サイクリストによる女子嗜輪会や、女子自転車倶楽部のような。それらはみんな女性たちに、頻繁な外出と、幅広い交際の機会だけでなく、姿態と生き方の新しいポーズを与えたはずだ。

フランスで画家として成功した藤田嗣治は、日本滞在中の1934(昭和9)年に、自分はフランスの女がいちばん好きだと告白し、「日本の女はまだ因循であるか、幼稚であるか、どっちかである。一人前の大人としては人間が貧弱すぎる」とつけ加えた(→年表〈現況〉1934年3月 藤田嗣治「アトリエ漫語」報知新聞 1934/3/23: 5)。ひたすら可愛らしさに頼ろうとし、幼稚で世間知らずなことを羞じもしなかった日本女性が、女性としての、いままで知らなかった自分の魅力に目覚めはじめるのは、これからのことだ。

こんな華やかなこととはべつに、教育の分野での機会均等も、遅々とはしていたが確実に進んでいった。1903(明治36)年には専門学校令によって、女子専門学校が認められ、女性の高等教育の道がひらけた。こえて1915(大正4)年には新大学令によって、大学への女子の入学、女子大学の設立、および大学院をもつ女子大学に、学位授与権を与えることがきまる(→年表〈事件〉1915年9月 「新大学令」読売新聞 1915/9/20: 4)。女子大学の設置は結局第二次大戦以後になるが、1920(大正9)年には帝大に、文科にかぎって女子の聴講生が認められ、この年32名が赤門をくぐる。私立大学では同年に日本大学、翌年には早稲田大学、同志社大学等が女子学生を受けいれている(→年表〈事件〉1921年3月 「早稲田大学、女性の聴講許可」朝日新聞 1921/3/8: 5)。

一方政治の世界では、婦人参政権運動は行く手の道はるか、という状況だった。夫(主人)と妻と、一家にふたつの意見があることは、一家和合の妨げになる、というのが反対の大きな理由だった。じつはその、明治民法に支えられた家制度そのものが、女性の自立と権利を抑圧する元凶だったのだが。

明治民法はたとえば不貞行為について、夫はその対象外としている。その理由は、家名の保持にとって、実子をもつことはほかの何にも優先するためだ。本妻以外の女性と関係をもつことも、ときには必要悪として是認しなければならない。天皇家の皇統が絶えなかったのもそのことによるのだ、とまで主張された。男系尊重の論理は、経済力と体力のほかに、男性優位の社会を支えた、もうひとつの根拠になっていた。

(大丸 弘)