近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 020
タイトル 衣服の手入れ
解説
日本の婦人は家庭に於いて、家人の衣服の始末をいたしますが、これは家事中最も大切なことの一つでありまして、これがために日本の家庭経済上どれほど、都合がよいか知れないのであります。冬になれば夏のものを、夏が来れば冬物の始末をするため、洗濯したり仕立て直したり、前身が傷まぬうちに後身と取替え、袖口が切れぬうちに袖付と振替え、姉のものを妹に譲るというように、いろいろの工夫をして、主人の衣服から子供のものまで、その季節に後れないように、それぞれ準備をいたしますことは、誠に手数のかかる煩わしいことのようで御座いますが、一家の経済、大きくしては国家の経済は、どれほどでありましょうか。
日本の婦人が年頃になって、容易に結婚することが出来て、楽しい家庭に子供を育て得るということは、一つにはこの経済から生まれる賜であります。若し日本の婦人に、衣服の始末が出来なかったならば、中流社会の男子が妻を迎えることは、到底出来ないことになります。従って婦人も未婚者が多くなって、独立して男子と競争するより外はありませんが、そうなっては婦人は実に、悲惨なものでありまして、この上の不幸はないのであります。
(「衣服の始末が出来なかったならば」【婦人画報】1914/7月)

これは1914(大正3)年に書かれた文章だ。若い娘たちを主な読者としていたこの雑誌は、妻が家族の着るものすべてを自分の手でつくり、かつその手入れや繰廻しにもあたらないかぎり、結婚して家計を維持することはとてもむりだと断定する。つづく「西洋の婦人は或意味に於いては不幸」という項では、家庭で繕い以上のことはしない西洋では、中流の男性の収入では、妻に多額の持参金でもないかぎり、結婚して子供の教育まではとてもできはしない。そこで男も女もどうしても独身が多くなる、と結論している。

じっさいにはこの時代、女の手は主婦ひとりとはかぎらなかったから、ぜんぶが主婦の肩にかかるときまってはいなかったが、第二次大戦後、むかしをふり返って老人たちが、ほんとうに家族の着るものの世話はたいへんだったと、だれもが口をそろえる。

いったい日常の衣服の世話にどれほどの手間と時間を要するかを、詳細に調べた人がある。家族構成、その人の手際の差は大きいだろうが、ここに引用したのは、主婦の自分一人の外出についてだ。(数字は分)

外出前 火熨斗掛け 火起こし 5分、上着 10分、下着 8分、長襦袢 7分、羽織 1分
帰宅後 揮発油での襟拭い 約1分、乾燥 3分、畳む 約5分、箪笥にしまう 2分、付属品片付け(ハンカチーフ・紙入れなど) 3分、後片付け 3分(計 約48分)

数回の外出で裾切れが生ずるので裾直しをしなければならない

裾廻り解き 5分、仕立上げ 210分、火起こし 5分、火熨掛け 10分(計 3時間50分)
(三宅やす子「衣服のために費やす時間と手数」【婦人之友】1913/6月)

着物は、ホコリを払って吊しておくだけ、というわけにはいかない。衣服のいちばんの手入れは洗濯だが、絹ものが水に弱いためと、和服の構造上、着物を洗うことはめったにない。汚れやすい肌襦袢でもおなじだった。「脂染み汗染みのある肌襦袢を着て、上に立派なものを重ねている女学生やお国出の奥さんがいくらもあるが、屈んだ時にこの襟が見えると、忽ちムーッと暑さを感じる」(→年表〈現況〉1905年8月 「夏の身嗜み」【文芸倶楽部】1905/8月)といった、意地の悪い目もあった。

そのため汚さない心がけも大切だったし、汗染みやハネ、小さな汚れはその部分だけの処置、しみ抜きなどが必要なことが多い。ぬいだ着物をたたむ前に、ひろげて、とりわけ裾や襟、袖口などにはじゅうぶん目を通す。当時の実用書には、いろいろな種類のしみをとるための、一体そんなものがいつも身近にあるのかと疑われるような薬品や、木の実やふしぎなものを使っての、しみ抜きの秘法が、なん頁も埋めていることがある。

毎日着るものなら衣桁か衣紋竹にかけておけばよいが、しばらく箪笥に入れておく場合はたたみかたにも心遣いが必要だ。毛織物とちがって木綿や絹ものは、折目がつよくつくと、そこが弱くなって折ぎれする。襟には汗や垢がつきやすいが、毎日揮発油などで拭いていたら生地がたまったものではない。そういうときは霧を吹いておけばたいていの汗は消えるし、汚れはぬるま湯でやわらかく拭きとっておく。折ぎれを避けるには、着ていない着物でも毎月1回くらいはとりだして、畳み直すのがよい。着物は縫い目にそって折りまげるところはきまっているが、畳み直すときは折目を心もちずらすようにする。紋のあるものにはその部分に紙をあて、また襟紙をあてることもある。箪笥そのほかの収納家具へのしまいかたにも、さまざまな注意が必要だった。

しまった着物は年に1、2回の虫干しをする。もっともこれは箪笥ひと棹と行李二つ三つくらいの庶民には、とりわけ必要なことでもなかったが。

継ぎ、繕いも、女の欠かせないしごとだった。ひと口に継ぎといっても、鍵裂きとほかの破れでは縫い方がちがうし、木綿ものと絹ものとでもちがう。破れているのは恥ずかしいが、ていねいに継ぎのあたっているのはちっとも恥ずかしくない、とは教えられるものの、現実には上等な着物に、丹念にほどこされている継ぎは、哀れに感じることがあるだろう。子どもの着物の場合はそんなこともないし、とくに戦争末期の世相のなかでは、継ぎだらけの学生服を、自慢し合うような風潮もあったくらいだ。

ふだんばきの足袋継ぎはなかなか力仕事だったが、洋服の時代になってから大変になったのは靴下の繕いだった。いわゆる洋品の部類に入る靴下は、1910年代(ほぼ大正前半期)以後になっても上等なものにはまだ輸入品が多かった。20年代(大正後期~昭和初期)には都会の小学生の多くは、運動靴で通学するようになる。靴下継ぎは母親や女中の、日課のような夜なべ仕事になった。1920(大正9)年頃には東京に、靴下の底の部分だけをそっくり取り替える業者が現れている(「靴下のそこを取換える店」『生活改善処世経済家庭百科全書』1920)。

(大丸 弘)