| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 019 |
| タイトル | 公衆浴場/銭湯 |
| 解説 | 公衆浴場のある国、都市はすくなくないが、それが江戸時代の日本ほど発達した例はほかにないだろう。開化以後約100年のわが国は、それを受けついでいる。 江戸時代は町屋で内風呂をもつことが禁止されていたわけではないが、少なかった。大きな商家で内湯のある家でも、奉公人は大戸を下ろしたあと、かわるがわる近くの銭湯に行った。湯屋が髪結床と並んで庶民の社交場だったことは、式亭三馬の『浮世風呂』をみてもよくわかる。江戸では銭湯を湯屋という。湯へへえってくる、などと言った。 東京の銭湯は、1880年代末(ほぼ明治10年代後半)までに大きく変わる。浴場は地方行政の管轄下にあるので、東京府令、あるいは警視庁令のかたちでつぎつぎと禁令が発せられた。行政の意図の第一は火災予防、第二は衛生、第三は風俗を糺す、外国人に見られても恥じるところのないように、ということだ。はやくも1872(明治5)年には、男女入り込みの湯を、春画や、裸体で歩くことといっしょに禁じている。1879(明治12)年の〈湯屋取締規則〉ではより具体的に、「第6条 浴場ハ必ズ男女ノ区域ヲ設ケ混同スルヲ禁ズ 第7条 浴場並二階内等 外面ヨリ見エザル様 簾其他ノモノヲ以テ必ズ目隠シヲ用イ 出入口ヲ明ケ置クベカラズ」(→年表〈事件〉1879年10月 「湯屋取締規則」読売新聞 1879/10/4: 1)と指示されている。 江戸時代の日本人は、男も女も、おたがいに裸をあまり気にしていないらしい。ごく寒いとき以外ほとんど裸商売、というような連中もいたし、長屋暮らしの男たちは、暑ければ家のなかでも裸同然の恰好をしていた。しかし銭湯での男女混浴の習慣は欧米人には興味があったらしく、当時、アメリカの旅行社の日本案内のなかにまで、それが紹介されている。欧米人にも恥ずかしくない文明化を推進していた国は、躍起になってそれに眼を光らせていた。開化のはじめの時期はなにかと過剰になったから、1885(明治18)年の警視庁布達では、7歳以上の男女の混浴を禁じている。その後1900(明治33)年になって、12歳以上の男女と、緩和された(→年表〈事件〉1900年5月 【内務省令】第25号 1900/5/24)。その後は現在まで変わっていない。 江戸時代の湯屋の構造のひとつ、石榴口(ざくろぐち)がなくなったのも1880年代(ほぼ明治10年代)だし、2階の営業が禁じられたのもだいたいその時期、明治10年代の終わり頃らしい。男湯の2階には女がいて、湯上がりの客を菓子や茶でもてなす。下の板の間できものを着て帰っても悪いわけではないが、桜湯の一杯がのどに快いのと、女が顔なじみになっていれば、見栄もあるのだろう。風紀上おもしろくないようなことはないにしても、客は無用の出費をすることになる。2階の禁止にしても、石榴口の消滅にしても、銭湯は身体を洗って温まりに来る場所、という即物的な建前になったことになる。 江戸っ児の入浴好きと、しかも熱い湯好きとはこれも欧米人の関心をひいた。あまり熱すぎる湯――44度以上の湯につかることはむしろ健康に害がある、との指摘をする外国人医師もあった(→年表〈現況〉1872年5月 「冷浴と温浴」日新真事誌 1872/5/15: 1)。厳冬の夜などは、湯屋から家に帰るまでのあいだに身体が冷えないよう――下げている手拭いが、棒のように凍ってしまうこともめずらしくなかったから――茹で蛸のようになって湯屋を出る必要がある。それが癖になって、というのもひとつの理由だったろう。 その江戸っ児の生き残りのなかには、朝、目がさめれば、起きぬけに手拭いを下げて湯屋に駆けつけ、手も入れられないような熱い湯に浸かりにくる連中が多く、その時分の銭湯が戸を開けるのは、夜明けから間のない時刻だった。それで暖簾を下ろすのがだいたい11時頃。それに比べれば明治から昭和戦前にかけての銭湯は、営業時間短縮の歴史、という側面をもっている。とはいえ江戸っ児の生き残りの多い東京下町では、太平洋間際まで日の出の時刻からの朝湯を頑なに守った。下町7区の東京市浴場協調会が、午前9時、ないし10時の営業開始、夜12時の終業をとり決めたのは、1937(昭和12)年のことだ。早朝から、というより、長時間の営業が、燃料高騰のためむずかしくなったのがおもな理由だったが、朝湯に来る客の数が、日中事変勃発の影響で激減しているという理由もあった(→年表〈事件〉1937年11月 「東京下町七区」朝日新聞 1937/11/9: 10;「投書」朝日新聞 1937/11/10: 3)。 しかし考えてみれば、都市人口にサラリーマンの比率が増え、あさ家を出てよる帰宅するパターンが標準化すれば、休みの日以外、朝湯の習慣をまもることは無理になる。事実、昭和時代になると、朝湯風景といえば、がらんとした浴場で、背中にお灸の痕のある年寄りが何人か、あぶない足取りでタイルの床を歩いている、というのがふつうだったのだ。 戦時統制が進むにつれ、燃料の不足、あるいは節約から、浴場の開業は正午に、さらに2時、3時、それ以後、というふうになり、終業時間は変わらないから、営業時間が短縮されてゆく。それはもちろん東京だけのことではなかった。戦時下では自家営業者も徴用に駆りだされて通勤者になっていたので、夕食後の短時間にお客が集中し、芋をあらう、という比喩が比喩とはいえない状態になった。燃料不足が深刻になると、浴場の輪番制休業もはじまって混雑に輪をかけた。湯船の濁った湯を見て、掛け湯だけで帰ってゆく神経質な奥さんもいた。脱衣場で虱(しらみ)をうつされるのも珍しい話ではなかった。この状態でいちばん悲鳴を上げたのは、乳飲み子を連れた母親だった。そのため地域によっては、母子入浴の時間というのを、開業後の1、2時間設定している。 (大丸 弘) |