| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 007 |
| タイトル | 階級/身分 |
| 解説 | 事故や犯罪にかかわる人物の識別のためには、むかしもいまも警察が詳細な調書をつくる。写真の利用が不十分だった明治時代には、顔つきや着ているものの注記がかなり念入りだった。髪の刈り様から鼻の高低までを書きつけた上で、士族風とか、御店者(おたなもの)風とか、一見権妻(ごんさい=妾)風、とかいう括りかたをしていることが多い。そのことは新聞の社会面の、水死人や行き倒れの記事にも共通する。 士族風は1890年代(ほぼ明治20年代中期)にはほとんど見られなくなる。80年代、90年代を通じて頻繁に出てくるのは、官員風、商人風、職人風だが、ただし官員風はさすがに犯罪がらみの記事はすくない。 仙台平の袴を着けて黒縮緬の羽織を服し時計の鎖を胸に輝かし頭に黒の高帽を戴きステッキを携え官員然たる人が(……)。 官員にも勅任官奏任官のような馬車を乗り回す身分から、腰弁の傭いまであるのだが、西洋風服装の導入は明治政府の意向に規制された彼らによって開かれたので、上下とも通勤はすべて洋服姿、以前は毛唐人の目印だった鼻下の立派な髭はいまでは彼らに奪われ、山高帽にステッキ、胸に懐中時計の金の鎖を輝かす――というのが明治10、20年代頃のお偉い官員様のモデルだった。 そのひとが他人の目にどう見えるか、何に見えるか、という基準の第一は職業、ないし職種だろう。明治時代にはそれをも含めて、身分ということばを用いていたようだ。 男性は官員、書生、商人、職人という区分がほとんどで、ほかには鳶、車夫、百姓、土方、時代がすこし下がると職工、学生がふえる。町人風という言いかたがあるのは明治のごく初めだけ。より具体的に、三百代言(さんびゃくだいげん)(弁護士)風、金貸し風、相場師風、医者か宗匠風、などもみられるが、周旋人、坊主、按摩などはタイプというよりも、その商売人そのものだろう。 職種以外で出てくるのは、隠居風、若旦那風、破落戸(ごろつき)風、遊び人風、なかでも多いのは紳士風で、しばしば「一見紳士風」といった、揶揄的ニュアンスのある例がよくある。 年齢二十五六歳にて、黒七子紋付の羽織に南部織りの衣類を着し、黒山高帽子に黒縮緬の兵児帯を締め、金鍍金の時計を光らせ、一見紳士体の装いなれど(……)。 じつは官名詐称の詐欺漢であった、という報道。七子織をはじめ、身につけているのはその時代のりゅうとしたもの。 女性については近代の前半では、娘か人妻か、言いかたはさまざまだが素人か商売女かの区別がほとんどすべてで、権妻風がときおりでてくる。 江戸時代には、山の手の大身の旗本の妻だけが奥様とよばれた。小身の御家人の妻女は御新造様、町家ではどんな富裕な家でもみんなお上(かみ)さんだった。それが明治になって、官吏の妻女をみんな奥様と呼ぶようになった。「其の徴候の著しく目立って来たのは明治十五六年頃から、小紋お召の流行は恰も此の成金奥様連を風靡した」と、この時代を回顧して内田魯庵が言っている(【婦人之友】1922/9月)。下町好みの縞に対して、小紋は屋敷風の気分のもの。 職業婦人が増えてきた1900(明治33)年以後になると、当然具体的に、女教員風とか、看護婦風とか、女工風とかいう記事が現れるようになるが、社会面記事ではともかく、小説作品のなかでは、職業をもつ女性はマイナスイメージで描かれている例が多い。 1910年代(ほぼ大正前半期)以後の婦人雑誌の時代に入るころから、その婦人雑誌の記事には、よい着こなし、賢い衣生活の要点のひとつとして、身分をわきまえることの必要さを謳っているものが多い。そこでいわれる「身分」がなにを指すのかは、必ずしもはっきりしていないが、たいていは家計のスケールを指しているらしい。またときにはその家庭の、社会的地位というものも意味しているらしい。社会的地位、あるいは職業と支出能力とは関係があるわけだから、昭和に入ってからの婦人雑誌の付録などではずっと具体的になって、たとえば夫が学校の教員や研究者の場合は、本の購入費が大きな負担になる一方で、こういう仕事の男性はあまり身なりを気にしないから、衣料費はある程度削ることができる、などと助言している。 身分不相応、ということはなにも着ることにかぎらないが、目立つのはやはり着て出るものだろう。夫の職業や社会的地位から考えると、着ているものにいつもすこし金がかかりすぎていはしないかと、定評のある奥さんがいる――。だれもがわかるようなよいものは確かに高価になる。自分のセンスからいえばこっちのほうがいいのはわかっていても、この三倍の値段のセーターを手に入れるためには、ほかのなにかを削らなければならない。今の自分にとって、それを着なければ舞台がつとまらないわけではない――という思慮が、明治大正期の助言者の口にした、身分相応、ということばの今風な解釈になるだろう。 もちろん、女訓書の著者たちの頭のなかには、もっとずっと厄介な身分観念のしがらみがあったにちがいない。その人たちの多くは、士農工商の身分制度のもとでか、その気分がまだ色濃かった時代に育っているのだ。 時代はすでに大正に入っていた1916(大正5)年の新聞紙上で、東京女子高等師範の校長の立場にある人物が、女性の袴についてこんなことを言っているのにはおどろく。 自分は以前から女学生に袴を穿かせるには反対の論者であった、女の袴と云うものは、元来が貴族的のもので有って、百姓の娘などが、学校へ行くからと云って、特に袴を買い求めて穿くなどは、チト不似合いの観が無かろう乎、華族や富豪の娘なら、袴でも洋服でも結構の様に思われるが、華族の娘と云った処で、決して真の華族とは申されない、華族の子で華族になり得るのは、嗣子一人のみで、他は皆平民の家を継いだり、平民の妻とならなくてはならぬ。 彼ら「識者」たちが二言目に口にしたのは、この頃は着ているものや髪型で身分の区別がつかなくなってしまった、という当惑ないし嘆きだった。 大阪へ参って感心しましたのは、髪に上下の区別がチャンと立っていることで、これは東京では滅茶滅茶ですが、京阪のお方は、奥様は丸髷、嬢様は島田、下女は白丈長の島田といった様に髪でもってチャンと身分がわかっています。(……)近頃はどうもお嬢さまと芸者とおなじ髪で、下女と女学生と間違ったりする風も見えますが、何だってそんな真似をなさるのでしょう。 わが国での最初の近代的戸籍は1872(明治5)年のいわゆる壬申(じんしん)戸籍。ここでは華族の外に、士族、平民が区別されている。華族には具体的な特権があったが、旧士族については、戸籍にそう記載されているというだけのことだった。それでもいくつかの法令や内規のなかで平民と士族を別扱いにしている事例が認められる。たとえば1871(明治4)年4月の各地の売女の取締のなかで、とくに旧士族の子女の娼妓営業については、「士族ハ旧来ノ関係モアレバ尤ニ体面ヲ保タシムベキ必要ナキニアラズ」と注意を添えたり、1876(明治9)年7月の警視庁達では、違式詿違(いしきかいい)罪を犯して罰金を納める力のないものは懲治監に収容するのだが、士族については自宅謹慎とする、としたり、1883(明治16)年に大審院が、出訴者の服装について、士族は羽織袴、平民は羽織か袴、ただし洋服は勝手次第、といった差別など。 1876(明治9)年の廃刀令によって、見た目での士族の目印がなくなる頃には、そういった法的な別扱いも少なくなるのだが、やがてそれまで士族に対して与えられていた、閏刑(じゅんけい)という一種の特典が廃されたのを以て、士族と平民の間の法的な差別はほぼ完全に消滅した。 新政府樹立の頃は官吏侮辱罪という法律まであったが、これはまもなく廃された。また1888(明治21)年に東京府庁は、それまで民間企業や個人に対する召喚状を、なんの誰、と呼び捨てだったものを、だれだれ殿と記すことに改めている(都新聞 1888/11/18: 1)。一方では自由民権のやかましい時代でもあったのだ。 (大丸 弘) |