| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 009 |
| タイトル | 女性の地位 |
| 解説 | 近世は日本史のなかでも、女性の地位がもっとも低く、権利の奪われていた時代といわれる。それが開化の時代になったとたん、なんの抵抗らしいものもなく、いままで閉ざされていたさまざまな扉が女性に向かって開かれた。 たとえば、多くの密教寺院では女人結界が解かれ、女性の入山が許された。結界とは、修行の障害となるおそれのあるものを近づけない、境界をいう。代表的なのは紀州高野山の金剛峯寺だったが、密教寺院は70寺以上が、寺域に女性を立入らせなかった。 一方、神社は血の穢れを忌むため、女性は月のうち数日は社の鳥居をくぐることができなかった。これは本人にしかわからないが、女性はそれを初潮のときから教えこまれていた。土地によっては、その数日は家の神棚に近づかないとか、煮炊き、つまり火を憚(はばか)る、という習慣もあった。しかしそれも明治から大正と変わるころには、そんなことを覚えているひとも稀になっていた。 回向院の大相撲が女性を見物させなかったのも、土俵がひとつの神域と考えられているためだ。だから相撲見物が1872(明治5)年に女性に開放されたあとも、しばらくのあいだは、神事のある初日だけは入場が許されなかった。 女性が富士山に登れなかったのもおなじ理由にちがいない。やはり1872年、吉田口からの女人参詣が許された。 近世の女性の地位について、いやむしろ女性は護られ、だいじにされていたのだ、という見方がある。その時代の女性たちは、近代以降のように男性と競争的な場に立つことは決してなかったから、女性は女性だけのいわば結界のなかにいた。その「分」を守っていさえすれば、それなりの満足した生活を送ることができた、と。 女性に男性とおなじ権利を与えて、差別をしない、という欧米風の考え方は、とりわけ教育の分野でめざましい結果を生んでゆく。しかし同時に、女は女であって、そのことを忘れてはならない、という主張も根強い。この主張は表現としてはあたり前のことのようだが、たいていの場合、女性についての後向きの思い込みが含まれている。 後むきの思い込みをもっとも端的に表現することばは、「良妻賢母」だろう。ことば自体をとりあげれば、よい妻、賢い母になんの悪い点もない。ただしそれはこのことばが、「良夫賢父」とセットになっていることが条件になる。そうでなければこの教訓は、一方にだけむけられた拘束、いわゆる蓄犬の倫理になってしまう。近代においても教育理念のなかに、家庭や家族にかかわる、男性の側に与えられるべき目標や義務はなにひとつなかった。忠義や孝行と同様、日本の道徳訓に共通して、弱い立場の側にだけ義務を負わす、新渡戸稲造の言葉を借りれば、それは片手落ちの道徳だ。 女性の教育は進展したが、文部省が繰り返したのは、「貞淑ノ徳ヲ養イ」(高等女学校規定 1895)であり、「婦徳ノ涵養」(全国女子青年団に対する訓令 1926)であり、良妻賢母だった。それは一方でもちろん富国強兵を支える強い男、とのセットだったことは言うまでもない。もっともそれは政府だけの考え方ではなかった。女性がなんらかの意味で男性と対等になることには、世間一般にある種の反感があったと考えられる。職業婦人に対する見方にもそれが反映している。 女性が女らしくなくなっては困る、という不安のあらわれのひとつは、最初のうちの小学校、女学校での体操授業だった。女の子に体操などさせたら、からだがギスギスしてしまって、せっかく六つのときから仕込んだ花柳流が台無しになる、といった苦情で、学校をやめさせる下町の親があったそうだ。それかあらぬか、一部の女学校の体操の時間は、表情体操といって、ほとんど日本舞踊の振付けといってよいようなものだった。 一方でごく少数ではあったが、そういう世間一般の尺度からみれば桁外れの女性も、この時代は許容している。開化後間もない時期から、身は女性であっても裁ち縫いやお稽古事には興味を示さず、学問の道に熱中する娘の存在が、ときおり新聞で紹介されている(→年表〈現況〉1876年6月 「感心な子」東京絵入新聞 1876/6/7: 1)。 1880(明治13)年に設立された東京女子師範附属高等女学校(創立時は女子師範予科)は、そうした好学の女性のために道を開いた、最初の中等教育機関だ。その後、女学校は公立私立ともに順調に発展する。ただし政府の女学校に対する態度は、ふたつの点でつねに一貫していた。そのひとつは、おなじ中等教育であっても、男子中学校に比べ学力の低いことを許容し、また裁縫など家事教育と、作法など女としての躾を重んじる教科設定だ。「女はマメでバカがいい」は、文部省公認ということになる。 女性の人権無視の最大のものは、公娼制度だったろう。公娼制度はわが国だけのものではなく、現代社会における、前近代的な人権蔑視と、差別の残りかすというほかない。それを認める体制側の言い分は決まっている。良家の子女の貞操を守るためと、性病の蔓延を防ぐため、のふたつだ。とりわけわが国は、性に対しては放恣で、寛大な文化があった。廓(くるわ)での女と男の、微に入り細を穿ったとりなりが舞台でも寄席でも描写されて客を喜ばせ、女性たちの悲惨さが吉原情緒などという厚化粧によって美化された。そして男たちの人間性の一部分に、娼婦と接触の経験をもたないような男は、一人前ではないと考えるような無神経さを育ててきた。 「公娼廃止建議案の賛成議員が沢山出た。おそらく、女といえば女房以外知らぬ紳士ばかりだろう」(東京日日新聞 1923/12/15: 夕1)などという揶揄が、大新聞の記者によって書かれる時代だった。 (大丸 弘) |