| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 014 |
| タイトル | 畳からイスへ |
| 解説 | 明治の日本人が生活の洋風化をつよく印象づけられたものに、洋服を着た人間とならんで、いろいろなところに入りこんでくる、机とイスがあっただろう。もともと洋風化はお上の、つまり政府の音頭取りとはだれもが思っていた。だから洋服を着ている人は軍人やお巡りさん、それから官員さんだったし、高い机とイスのあるところは役場や警察、郵便局に銀行、それから学校というような公的施設で、堅い、窮屈な場所だった。 1880(明治13)年の[郵便報知新聞]に、千葉県葛飾郡のある役場では、「例の倚子テーブルなどは用いず、従前の机にて畳の上で事務を扱い、戸長始め吏員一同人民を親切に取り扱い、すこしも権威がましき風なく(……)」という報告がある(→年表〈現況〉1880年9月 「千葉県葛飾郡辺の戸長役場」郵便報知新聞 1880/9/25: 3)。明治のはじめには、畳に座って執務していた田舎の郵便局や銀行の事例はほかにも知られている。しかしそれは机やイスの整備が間にあわなかったような場合で、葛飾の事例にはその時代の人の感じていたらしい、いわばイスと机の権威、という認識が読みとれるようだ。 畳生活ではイスはいらないし、庶民の家庭では机さえなくてすんだ。江戸時代の寺子屋では、子どもたちの手習い算盤のために天神机という、粗末な座り机を用意しているのがふつうだった。はなたれ小僧の多くにとっては、机といえばそれ以外の経験はなかったろう。1889(明治22)年に東京府の学務課が府下の私立小学校に発した諭達のなかに、教場は畳を廃し板敷きに改めること、従来生徒の使用していた天神机と称するものを廃して腰掛けに改めること、の2条が含まれていた。公教育の整備が遅れていたため、明治中期まで東京でもたくさんの私立小学校があって、特色があるといえばある、けっこう古風な授業をしていたのだ。 ともあれ立机をつかい、長時間イスに腰掛ける習慣は、6年かそれ以上の教育の場において、日本人すべてのからだに浸みこんでゆく。それにならって家庭で子どもに机を買い与える場合も、立机をえらぶ親が出てくる。もっとも明治期の下宿屋の様子を撮影した写真や、小説の挿絵を見ると、立机にイスは例外的のようだ。下宿に家具はついていないから、立机を使うにはイスという余計な出費が要る。だいいち狭い部屋に立机とイスは図体が大きすぎるし、引越しにもやっかいだ。こういった点は子どもに机を買ってやる場合もおなじだったろう。 家で机の前に座る必要のある仕事をもっているひとたちも、長いあいだ、明かり障子に向かって大きな座り机を据えていることが多かったようだ。立机にイスでは腰から下が冷える、という理由をいうひともあった。家で着流しの和服に着替える習慣のあった時代、またその時代の家屋内の暖房では、それももっともだろう。 家で机に座る必要のあるひとたちも、家を一歩出ればそこは立机とイスの世界だから、座り机の不便さも知ってはいた。たとえば蔵書が増えて本箱に一杯になっても、座っていたのでは上のほうには手がとどかない。座り机は机自体の収容力が小さいし、なにより立ったり座ったりが億劫だ。 机とイスについてのこうした問題は、結局は1910年代(昭和3年)以後の日本人の、生活全体の向上が解決していった。九尺二間の棟割長屋に庶民の大部分が住んでいたような環境はもう時代劇映画のなかだけになった。住居の絶対面積がひろがるとともに、イスの脚が畳を傷めないように絨毯などの敷物をしいたり、一部屋だけを板敷きの洋間にしたり、庭にむいた縁側の幅を広くしてベランダ風にし、そこに籐椅子をおく、といった住みかたが好まれるようになった。1922(大正11)年に大阪で開かれた住宅改良博覧会では、明るく働きやすい台所、家族の団らんを重んじる居間、個室の重視、とならんで、イス式生活を住宅改良の主要命題としている。 この時代、新住宅の設計施工で成長した建設業者アメリカ屋の主人は、こんなことを言っている。 さしずめ起こる問題は洋風か和風かということですが、一般的傾向は畳より倚子の方が喜ばれてきたようです。……私共では是非、四畳半か六畳の畳敷きの部屋を設けることをお薦めしています。これは今までの洋風の建築で忘れられていたひとつで、病気、お産、または泊まり客があるといった特殊の場合にあてるための部屋です。 アメリカ屋の顧客によって、その時代の日本の新住宅全体の傾向を云々することはできないにしろ、これはまるで1960年代以降のマンションの標準的プランに近い。また8年後の[大阪朝日新聞]にも、日本の旧来の建築様式をまったく捨てて腰掛け化を選択するひとの多いのを遺憾とする、という論説が見られる。論者は「旧来の建築様式は腰掛化に不適当なものとされておりますが、決してそんなはずのものではありません(……)」と言い、家庭のイス化の現実それ自体は、動かしようのないものとして肯定している(→年表〈現況〉1928年5月 「家庭の腰掛化」大阪朝日新聞 1928/5/18: 10)。 女性が膝から下を見せる機会が多くなったことによって、園遊会模様などという大柄の総模様の好まれたことを指摘するひともある。それに対しては、「倚子ばやりから、裾の方にばかり華やかさをもった時代は過ぎ(……)」と言って、そんな傾向は一時的のものにすぎなかったと突き放している見方もある(報知新聞 1923/2/2: 夕9)。 そんな問題よりはるかに大きな意味をもっていたのが、膝を折ってうずくまる生活から解き放たれた、とりわけ女性の肉体と生活の変化だろう。畳に振袖を八の字に広げて大きな蝶のようにすわる娘、畳に突いた三つ指の上に重たげな高島田がかぶさる、古風で、淑やかな座礼、そうしたものへの愛着がまだまだ根づよかった時代だったが、その一方ではもう1930年代といえば、膝を曲げてはものの5分と辛抱できない脚の持ち主や、ソファにふかぶかと沈んで、大胆に組んだ膝を相手の鼻先に突きだすような娘が、めずらしくはない時代に入ってもいた。 (大丸 弘) |