近代日本の身装文化(参考ノート)
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3. アクセサリー 301 明治時代の宝飾品 宝石や貴金属で身を飾ることを、江戸時代の人は知らなかったとさえいえよう。装飾品のほとんどは女性の髪飾りであり、それとて金銀や宝石類はなく、櫛、笄(こうがい)や、簪(かんざし)に用いられたのは鼈甲、珊瑚だけで、それ以外の材料はまれだった。開化と同時に西洋の宝石類が入ってきて、富裕階級の人々の装いを飾るようになったが、そういう行為自体に、ものめずらしさがあったにちがいない。最初に人々に受けいれられたのは指輪で、西南戦争のころには、すでに結婚指輪さえ交換されていたのには感心させられる(→年表〈現況〉1878年… 3. アクセサリー 302 近代後期の宝飾品 第一次大戦が終わりに近づいた1910年代後半(大正前半)、大蔵省は奢侈税の可能性を検討していた。適用対象の第一と考えられたのが、貴金属宝石類はじめ身辺の装飾品だった。当時、東京銀座天賞堂本店の販売品のなかには、おもいきって宝石をあしらった1,800円の帯留、目方を軽くするため技巧的な透かし彫りをほどこし、プラチナをちりばめた700円の腕輪――などがあるほか、宝石をあしらった高価な腕時計の多いのが眼につく。腕輪――ブレスレットはふつうはきものの袖に隠れてしまうので、高級腕時計をブレスレットのように扱ったと… 3. アクセサリー 303 日本髪の髪飾り 1880年代(明治10年代末)の束髪ブームでは、櫛笄(くしこうがい)や髪飾りを扱う小間物業者のなかには、転業まで考えた店があったらしい。しかしもちろん束髪には束髪のための髪飾りがあるし、流行が洋髪に代わってもソバージュの時代になっても、扱う品種が代わるだけで、整髪や化粧のための商品がまったく要らなくなってしまうわけではない。とはいえ、日本髪と、1930年代以後の洋髪、パーマネントウエーブの時代とでは、女性が髪のケアのために必要とするアイテムは、まったく変わってしまった。髪飾り類についても、束髪はその中間… 3. アクセサリー 304 束髪の髪飾り 1890年代(ほぼ明治20年代)の縦型束髪の時代、束髪は毛を束ねてヘアピンやリボンで固定する方法が主だったから、わが国の女性たちにとって、ピンの使用は新鮮に感じられたかもしれない。もっともこの時代、ピンと呼ばれていた飾り具の実質は、簪(かんざし)にほかならなかった。日本髪用の簪にくらべると、「いかにも質素のもののみなれば、おのずから上流向きには、物好きの珍品、さては好みの注文もあるならん(……)」と、【風俗画報】の記者は言っている(→年表〈現況〉1905年5月 「流行門―束髪の世界」【風俗画報】316号… 3. アクセサリー 305 鏡 1893(明治26)年に出た『男女自宅職業独案内』』という本に、「硝子鏡を製する法」という章がある。硝子板と、おなじ大きさの錫箔一枚を用意し、錫箔に水銀を注ぎ、しばらくして再びこれに水銀を注ぎかけ、この親和物を平らに置いた硝子の上に敷きひろげる、ただしこの際最初に余った水銀と、生じたその他の酸化物をもすべて掃き去るを要す、かくてのち若干量のおもしを数日間載せておけば、「混和物が硝子に固着して充分なる鏡となるを得べし」と、本文はもうすこし詳しいが、だいたいこんなことだ。はたしてこれで実用的な鏡ができたのだ… 3. アクセサリー 306 指輪 開化後、欧米に見習ったアクセサリーのうちで、最初に日本人の装いにとり入れられたのは指輪だったかもしれない。指輪は服装とは無関係に利用できるために、受け入れやすかったということだ。すでに1870年代の末には、「時計と指輪で開化ぶり」(→年表〈現況〉1877年12月 「投書―何々ブリ」読売新聞 1877/12/13: 3)とか、「指切り髪切りゃ昔のことよ、今は指輪の取りかわせ」(→年表〈現況〉1878年6月 「指輪の流行」読売新聞 1878/6/18: 3)などと言われていた。しかも1878(明治11)年の… 3. アクセサリー 307 リボン リボンは幅の狭い織物で、結束用にも用いることができ、その点では実用性を持っている。装飾用のリボンの多くは、実用性をなくしていないで、両方を兼ねているのがふつうだ。紐や細布の結び目が、飾りとしても用いられるのはどんな文化にもあり、わが国では帯がもっとも代表的だが、羽織の紐や、祝いごとの熨斗飾りなどでは、きわめて技巧的に発達している。ただしわが国の場合は、帯以外の結び飾りは、組紐、糸、元結など、紐結びばかりが目について、、数センチ幅のテープを使った結び飾りの経験が、開化以前にあるだろうか。そういう意味でリボ… 3. アクセサリー 308 靴 明治・大正・昭和のはきものは、欧米とはちがう風土と居住スタイルの特性から、単なるスタイルのファッションにとどまらない面倒な問題をかかえていた。幕末から明治初頭、坂本龍馬の1885(明治18)年撮影とされる肖像のように、紋付に袴すがたの武士たちが、足もとだけは開化風に靴をはいている写真が数多く残されている。いつ暗殺者に切りかけられるか知れないような時代、ぬげやすい下駄や草履とくらべれば、足をしっかりつつむ靴は心強かったにちがいない。和装とくみあわさった「開化の靴」は、ごく一部の人々――女学生など――を例外… 3. アクセサリー 309 はきものと住居・建物 ズボンを窮屈袋と呼び、帰宅すると洋服を着物に着替えてゆったりする、という習慣を持ち続けてきた日本人が、靴の窮屈さを嫌ったのは当然だ。第二次大戦後になって住居の洋風化が一気に進み、とりわけ鉄筋マンションでは、畳の部屋はあっても1室だけ、という時代になったが、西洋風に靴ばきのままが許される住居は、まだ皆無にちかいだろう。住居内では靴を脱ぐ習慣は日本にかぎらず、木の床を張って、そのうえで生活してきた文化ではふつうのことだ。その床の上に、泥や犬の糞などを踏んだ履物のままで歩き回られてはかなわない、という潔癖さも… 3. アクセサリー 310 下駄 下駄は種類が多く、おなじ名前であっても、時代や地域によって別のものをさしたりすることがよくあるから、注意が必要。その理由は、台なら台の特色につけられた名前が、いつの間にかほかの部分や、組み合わせの特色と紛れてしまうため、と考えられる。大きく分ければ、下駄の特色はつぎの要素できまる。(1)台のかたち (2)刳(く)り歯か差歯か (3)歯の高さ (4)表 (5)台の塗 (6)鼻緒(1)台のかたちは歯の部分のかたちも含んでいる。平面的には、男ものは角形、女ものはやや細長く、かつ丸みのあるものが基準。側面から見… 3. アクセサリー 311 草履 下駄と草履(ぞうり)の厳密なちがいはない。常識的には、歯のあるものが下駄、ということかもしれない。草履には、足の裏が床や地面にぴったりついている履き心地があり、堅い歯によって、ある高さに支えられている感じの下駄とはちがう。高さの点では、重(かさね)草履のなかにはずいぶん高いもの(10センチ近くになる)もあったが、そういう例外を除けば、一般には草履は下駄よりかさが低く、安定がよい。草履は名のとおり、ほんらいは藁製の履物をいうはず。だから草鞋(わらじ)は当然そのなかに入らなければならないが、ふつうは区別して… 3. アクセサリー 312 足袋 足袋は近代80年の末には和服と運命をともにして、生活的にはほとんど消滅する。足袋はしかし和装のなかでも特異な存在感のあるものだ。足袋が特異な存在であるという理由は、これが和装中ただひとつ立体的な裁断法によっているためだ。だから初期の洋服裁縫業者のなかには、足袋屋からの転身者が多かった。足にピッタリ合うか合わないか――つまりフィットネスが気になるのは足袋だけだから、その技倆をもつ職人がいるかどうかで足袋屋の評価がきまる。おれは何屋の足袋でなければはかない、というようなセリフを吐く人は多く、もちろんそういう… 3. アクセサリー 313 肩掛/ショール 肩から上半身にかけてを覆う大型の衣服がショール。首のまわりをふさいだり、飾ったりするものの種類は多く、日本語の襟巻、くび巻はじめ、ネッカチーフ、ストール、ネクタイなど、形やつかい方にそれぞれ特色があるが、ショールはその大きさがなによりの特色で、外国でも日本でも、外套に代わって防寒のために用いられるのがふつうだった。それならばなぜ外套を着ないのか、という点を考えると、その時代の衣文化の一側面をうかがい知ることができる場合もある。現代わが国で若い女性の和装にショールが用いられる理由は、機能の点からいえば、ふ… 3. アクセサリー 314 前掛/白衣 ここで前掛、白衣といっているのは、衣服やからだの汚れるのを防ぐために、外側にもう一枚覆うものをさしている。前掛、前垂、エプロンというのはふつう前面を覆うだけなのに対して、白衣(はくい)、割烹着などはからだの大部分を覆うような、もっと大きなもの。また、実験や検査、手術、各種研究用の白衣のなかには、衣服の汚れとともにからだを危険から守るという目的のものもある。そういうものは防護服のなかに入り、構造も複雑だし、材質も金属を含めたもっと仰々しいものになる。したがって白衣系の上っ張りは、色が白であってもなくても、… 3. アクセサリー 315 明治の帽子・かぶりもの かぶりものは造形上の制約が少ないために、かたちがヴァラエティに富んでいる。日本の男性は古代中世には烏帽子(えぼし)をかぶる人が多かったが、江戸時代に入っては露頭がふつうになっている。そのため寒さしのぎや顔を隠したいときには、かんたんな頭巾や手拭いを用いた。頭巾や手拭いかぶりは女性もした。この風は男女とも、明治に入ってもしばらくは残っている。引用するのは、1875(明治8)年の投書。嗚呼見苦しい日本第一の都会の往来を、立派ななりをした人が寒さ凌ぎか日よけか知らぬが、底のない紙袋をかぶったように鼻の先の所へ… 3. アクセサリー 316 近代後期の帽子 1910年代(大正前半期)以後の男性の帽子は、中折の時代に入る。礼法書の服装の頁を開けば、どんなときにはシルクハット、または高帽でなければいけないかとのくわしい説明はあったが、大衆にとってはシルクハットは鳩の出てくる奇術師の帽子、山高帽は田舎の村長さんの帽子になっていた。夏になると、これはまったくカンカン帽とパナマの世界だった。カンカン帽は麦藁製で叩けばそんな音のするほど堅い。色が薄いため一夏でけっこう汚れ、帽子洗い屋が繁昌した。もっとも値段も安かったので夏ごとに買い換えるひとも多かった。ブリム(つば)… 3. アクセサリー 317 喫煙 わが国ではすでに1900(明治33)年3月に〈未成年者喫煙禁止法〉(法律第33号)が公布され、20歳未満の青少年の喫煙は禁じられている。しかしその一方で、成人の喫煙志向はきわめてつよかった。人毎に烟草吸わぬはなく、大晦日の不景気を口にせぬ人はなし。(→年表〈現況〉1892年1月 「新年の流行」日本新聞 1892/1/3: 2)(……)近来は流行ともいうべきか煙草を喫まざるものは殆んど普通の人間を外れたるものの如く、漸く乳を離れたる子供も菓子よりは煙草という有様にて両親の厳禁の裡にも猶父の煙草をぬすみて密… 3. アクセサリー 318 鞄/手提げ/袋物 『日本囊物史』(井戸文人 1919)の書きだしには、「一体、我が国の人は古来手に提げる物を持つということは殆どなかったのであります。然るに漸く明治初年頃から此の風習を見る様になりました(……)」とある。なるほど絵巻物や浮世絵のなかの人物は、たいていは手には杖をもつくらいで、荷物といえるようなものはみな背負っているようだ。小さなものはふところか袂(たもと)に入れ、あるいは帯に結ぶか、ひっかけるかして提げていた。金財布などはふところに突っこんでいるのがふつうだったから、まさに懐中ものだった。女性は幅のひろい… 3. アクセサリー 319 傘 「傘」と「笠」の語源的な関係ははっきりしていないようだ。ともあれ柄の付いたほうを「さしがさ」といい、頭にかぶるほうは「かぶりがさ」という。この項で扱うのはさしがさのほうで、手傘という言いかたもあるが、めったに使わない。中世の絵巻物を見ると、傘は庶民のものではない。庶民が傘をさすようになったのは江戸時代以降で、江戸時代後半にはいろいろな名前の傘があったようだが、明治以降の人がだれでも知っている和傘は、番傘と蛇の目の2種類ぐらいで、たまに出てくる大黒傘という名はあるが、これはもともとは大阪の大黒屋製のものを… 3. アクセサリー 320 手拭/タオル 手拭が家庭からすがたを消すようになったのは第二次大戦後、1960年代(昭和35年~)だろうか。関係はないだろうが、ちょうど洗濯機が急速に普及しはじめた時期であり、多くの庶民の家庭にも内風呂ができた時期よりはすこし前のことだ。むしろ、第二次大戦以前に、なぜ浴用そのほかに、タオルがひろく用いられなかったのかがふしぎだ。タオルそのもの、つまりパイル織物は、開化のごく早い時期に舶来していた。1880年代(ほぼ明治10年代)には、大型のタオルは首巻きとして愛用されている。白無地のタオルを、まるで毛皮かなにかのよう…