近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 318
タイトル 鞄/手提げ/袋物
解説

『日本囊物史』(井戸文人 1919)の書きだしには、「一体、我が国の人は古来手に提げる物を持つということは殆どなかったのであります。然るに漸く明治初年頃から此の風習を見る様になりました(……)」とある。なるほど絵巻物や浮世絵のなかの人物は、たいていは手には杖をもつくらいで、荷物といえるようなものはみな背負っているようだ。小さなものはふところか袂(たもと)に入れ、あるいは帯に結ぶか、ひっかけるかして提げていた。金財布などはふところに突っこんでいるのがふつうだったから、まさに懐中ものだった。女性は幅のひろい帯のあいだにはさんだ。手にものを提げて歩く、というのは小さなことだが、明治のはじめには、これも新時代のスタイルだったことになる。

胴乱と名のつく革製の物入れは『守貞謾稿』(1867)中にもある。幕末の争乱期には弾薬入れとしての用途からかなりひろまり、胴乱という名称も後々まで忘れられはしなかった。しかし結局、革製の手提げには鞄(かばん)という新しい名称が与えられ、胴乱は胴乱でとどまる。そののち用途もひろがり、かなり大型の製品もあるが、胴乱はウエストポーチとしての最初の役割の印象がつよかったせいか、鞄とは区別されている。ただし、『日本囊物史』によると、手提鞄を「提籃(ていらん)」という呼び方が、ごく短期間だが袋物業界などにはあったらしい。乱と籃で字はちがうが、ドーランという音と物とが、頭のなかでは結びついていた証拠ではないだろうか。1912(大正元)年に刊行された『和洋おさいく物新書』(梶山彬 1912)という本のなかでは、提籃ということばを、手提げの総称のように使っている。

また、旅行にもち歩く小型の柳行李が前代からあったはずだが、手に提げるということはなかったし、振分けにするにしても、たいていは風呂敷でくるんでしまっているようで、挿絵などからの確認はできない。むしろずっとあとになってから、素材に柳をもちいた西洋風のトランクや、バスケットという名の、ピクニックにもってゆく手提げが現れる。

大型のトランク類をはじめ各種の旅行鞄は、遠い土地に旅してきた紅毛人によって、幕末からずいぶん入っているにちがいない。しかし1880年代(ほぼ明治10年代)、あるいは90年代に入ってからも、新来の「手提袋」類に関しては、まだ呼び方の混乱時代だったといえそうだ。

だいたい、カバンということば自体、その来歴がはっきりしない。カバンという言い方の早い例では、[大坂日報]の1877(明治10)年のつぎのような記事がある。

明治四年の頃、唐物町一丁目皮物職森田某が始めて西洋カバンを製出せるが、昨今は府下にカバンを製する家、一百三十軒余の多きに至りしと。
(大坂日報 1877/12/12)

またそれにあてはめた鞄という漢字も、革と包とを合体させたのだろうという推測がつくだけで、それがいつごろのことかわからない。字にうるさかった森鴎外は、1910(明治43)年に書いた『青年』という作品の中でも、鞄ではなく徹底的に「革包」と書いている。

このような場合、ある資料が――たとえば業界の古老の記憶とか、第1回内国勧業博覧会の記録といったものが、ひとつの事実をさし示しているらしく見えても、それをその時代、だれもがそう考えていたと理解することだけは避けなければならない。たとえば1890(明治23)年の新聞挿絵で、一人の旅人が革製らしい手提袋を抱えているとしたら、その呼び名は、提げている男の口から出ることだけが事実で、それを教えてくれるのは、本文中の作者の注記以外にはない。

手提袋の呼び名が不確定的だったのは、袋物業界と鞄業界の製品に、かなり重複する部分があったためもあるだろう。新興の鞄製造業者はもと馬具製造業から転身したものが多く、当然皮革の扱いに慣れていた。旅行用の大型の総革製鞄などは、鞄業者の独壇場だが、小型の鞄、とりわけ薄手の革を使用する女持ち鞄となると、袋物との境界ははっきりしなくなる。

一方、伝統の技法をうけ継ぐ袋物業者であっても、時代に添って需要家の求めには応じないわけにはいかず、たとえば1880年代になると盛んに金具を使用するようになる。これは帯留の場合同様、1876(明治9)年の廃刀令以後、刀剣の目貫などに使われていた金属加工の技術を受けいれたもの、と考えられている。一方西洋鞄の方にしても、たとえばある時期以後のボストンバッグのように、革を使うにしても持ち手と補強部分だけ、金具はファスナーのみ、という製品も少なくない。

また上に紹介した『和洋おさいく物新書』でもわかるように、女性の手提げには手作りの、その人その人の工夫の加わったものも多かったはずだ。明治の初年に信玄袋という手提げが流行した。そのあと1890年代(ほぼ明治20年代)に千代田袋と名づけられた手提げが流行、つづいて三保袋、四季袋、延命袋、アンテロンバッグ、オペラバッグ、理想袋、乙女袋などの名が、流行誌や新聞には現れる。しかし信玄袋ひとつをみても、細部のつくりは一様でない。明治・大正期の、とくに女性用手提げ、バッグ類を、新聞広告掲載の商品名や、流行案内に紹介されている名称と、あまり窮屈にむすびつけるのは、むだといってよいだろう。

女性用手提げの普及は、当然ながら女性の外出機会の増加、さらに職業進出に比例している。1910年前後からマスコミが注目するようになり、20年代になると、女性の外出にバッグの欠かせない時代に入った。

手提げ袋は今素晴らしい流行で、女という女はみな提げています
(→年表〈現況〉1922年10月 「手提袋御用心」都新聞 1922/10/19: 9)
手提げというもの、この頃では婦人の外出に際して必ずなければならないものになって来ました。
(→年表〈現況〉1927年11月 「秋の婦人手提げ」都新聞 1927/11/2: 11)

それにともない次第に大型化し、革製のしっかりしたもの、口金や、肩から掛けるストラップつきの、つまり洋装にむいたハンドバッグの時代に入る。ハンドバッグといういい方がひろがるのは、20年代末、昭和に入ってからだろう。ただし革製だからハンドバッグといって布製の袋物と区別したか、洋装だから革製のハンドバッグを用いたか、などはもちろんはっきりしない。

1930年代後半(昭和10年代前半)の、輸入制限の時代になるまで、革製ハンドバッグといえば輸入品が多かった。それは女性用バッグ、とりわけショルダーバッグスタイル自体、輸入ファッションだったためもある。

(大丸 弘)