近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 302
タイトル 近代後期の宝飾品
解説

第一次大戦が終わりに近づいた1910年代後半(大正前半)、大蔵省は奢侈税の可能性を検討していた。適用対象の第一と考えられたのが、貴金属宝石類はじめ身辺の装飾品だった。当時、東京銀座天賞堂本店の販売品のなかには、おもいきって宝石をあしらった1,800円の帯留、目方を軽くするため技巧的な透かし彫りをほどこし、プラチナをちりばめた700円の腕輪――などがあるほか、宝石をあしらった高価な腕時計の多いのが眼につく。腕輪――ブレスレットはふつうはきものの袖に隠れてしまうので、高級腕時計をブレスレットのように扱ったともみられる。ダイヤ14個約1.5カラットを嵌めた、1,200円の女持ちという商品があるが、日によっては3点ぐらいは出る、という。変わったものとしては、ダイヤの代わりに極小の時計をはめ込んだ、890円の指輪がある(→年表〈現況〉1918年9月 「流行る奢侈品中では宝石が第一番」時事新報 1918/9/18: 6)。もちろんひとつかみの成金たちの金の使い道ではあろうが、日本人がようやく生活の一部に、欧米のハイソサエティー的な、飽満と過剰を実現しはじめたしるしとして記憶される。

装身具のなかでも、基本的には実用性を目的としない宝飾品類は、見た目の美しさを飾る目的なのか、とびぬけた値段の高さが誇りなのかは、身につける人の心のなかでも揺れうごくだろう。ともあれ明治の、貧乏性の日本人の場合は、金銀宝石の高価さに、より心をひかれていたようだ。1926(大正15)年12月の【婦人倶楽部】に、「指環など何個も重ねたり、両手に嵌めたりするなど下品で品位を損ないます、(……)いいものをひとつ群星のなかの大惑星の如く光らせる方が、どの位見栄えて、人目を聳(そびえ)たしめるか知りません。この方が又どんなにか高尚なやりかたであります」という文章が「装身具の買い方秘訣」(P381)という記事中にあって、筆者のいわんとすることと、筆者自身の宝石礼賛の本音が、かさなりあって伝わってくるのがおもしろい。

1898(明治31)年に連載のはじまった尾崎紅葉の小説『金色夜叉』の冒頭では、新年の歌留多会で、金300円のダイヤモンドの指輪の光に眼がくらんだお宮さんが、恋人の貫一をすてる。この時代、官吏の初任給である最下級6の年俸が180円弱、住み込みの女中さんは食つきで年20円足らずだったのだから、むりもなかったのだろうか。

明治時代ははっきり言って、とにかく「金」――カネではなく、キン――が幅をきかした時代だったらしい。眼鏡といえば金縁だった。入れ歯は金にかぎっていて、笑ってそれをキラリと光らすのを得意にするひとがけっこういたそうだ。静岡に隠棲していた十五代様徳川慶喜公爵が1885(明治18)年に純金の義歯2本を入れ、その値段が400円、というのが話題になった(「純金の義歯」東京日日新聞 1885/6/14: 6)。ちょうど金色夜叉の愛読されたころは、たいていの令嬢たちの頸には懐中時計の長い金鎖が巻かれていた。この時代の人にはまだ、旧時代の金の大判小判の幻が生きていたのかもしれない。金歯については日中戦争のはじまったころになってようやく、「人に与える印象の点から、自然さを尊重する人には陶材を奨めたい」という歯科専門家の意見が現れはじめる(→年表〈現況〉1937年2月 「入れ歯の詮議」朝日新聞 1937/2/12: 4)。また1900(明治33)年頃からは、人々の好みがようやく金を離れて白金に移っていった。

欧米の宝飾品を日本人が受けいれるについての大きな障害が、洋服と和服の構造のちがいだったことは明らかだ。したがって関東大震災(1923)以後、日本女性のあいだに洋装がひろがりだした時代になって、多くの洋風の宝飾品はようやく欧米風の飾り方で、受けいれられるようになる。

耳飾りや指輪のようなボディ・ジュエリーは着るものとの関係が薄いのだが、耳輪耳飾りは和服の時代にはほとんど受けいれられていない。和服というより大きな鬢をもつ日本髪では問題にならないし、ほかの宝飾品とちがって耳飾りは耳たぶに穴をあけることが多いので、そういう習慣のなかった日本人には抵抗があったらしい。ベルリンで留学中の木内某は見聞レポートのなかで、「西洋婦人の耳輪を掛くるは亦一種の飾りには相違なかるべけれども、さりとては又野蛮極まれる装飾なり(……)」ときめつけている(「欧州事情 第三 耳環」大阪毎日新聞 1892/9/18: 1)。耳輪は明治時代の日本人にはラシャメン臭い印象があっただろうし、また清国婦人っぽくも思われただろう。日本女性のなかでイアリングが流行しはじめるのは1920年代後半(昭和初め)の、支那服の流行がひとつのきっかけだったようだ。

和服に受けいれられやすい宝飾品――ボディ・ジュエリーのひとつがブローチだった。留めピンとしての実用性からいえばいろいろな用途が考えられるが、明治期にはふつう襟留めとして、胸の打ち合わせの固定に使われている。しかし打ち合わせを固定すること自体が女学生趣味だったから長続きはしなかった。

きものにも、西洋のデコルテ風に近い胸あきをもつ着方はあったのだが、和装に胸・首飾りはほとんど受けいれられなかった。洋服を着る女性のふえてきた1935(昭和10)年以後になると、欧米でのファッションがハイネック主流になったため、結局わが国では戦前ネックレスへの関心は低かった。背が低く、首のみじかい日本女性にネックレスはむずかしい、という見かたもあった。

前代につづいて明治から大正にかけても、宝石・貴金属類や珊瑚、鼈甲などのひろく利用された場所のひとつは髪飾だ。しかし1920年代末(昭和初め)からはじまったシンプルで小ぶりな洋髪には、廂髪(ひさしがみ)時代のような大きな飾櫛や簪(かんざし)のたぐいは似合わなくなっている。むしろそれに代わったのがイヤリング、と見られるかもしれない。

第一次大戦以後の欧米社会では、合成宝石がいちじるしい発達を見せたため、高価なほんものを日常身につけるのはむしろ愚かなことになった。たいていはほとんど見分けのつかない合成宝石を用い、本物を身につけるのは、なにか特別の機会にかぎられるようになった。ジェイムズ・ハドリー・チェイスの名作『ミス・ブランディッシの蘭』(1938)では、大富豪のひとり娘が、誕生パーティーに有名な首飾りの本物を身につけるという情報が暗黒社会に伝わり、そのために令嬢は誘拐されて、ハードボイルド的な目に遭わされることになる。

(大丸 弘)