近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 307
タイトル リボン
解説

リボンは幅の狭い織物で、結束用にも用いることができ、その点では実用性を持っている。装飾用のリボンの多くは、実用性をなくしていないで、両方を兼ねているのがふつうだ。紐や細布の結び目が、飾りとしても用いられるのはどんな文化にもあり、わが国では帯がもっとも代表的だが、羽織の紐や、祝いごとの熨斗飾りなどでは、きわめて技巧的に発達している。ただしわが国の場合は、帯以外の結び飾りは、組紐、糸、元結など、紐結びばかりが目について、、数センチ幅のテープを使った結び飾りの経験が、開化以前にあるだろうか。

そういう意味でリボン飾りは、当時の日本人の眼にはきわめて新鮮で、またエキゾチックな印象になるはずだったが、資料の上ではその点がはっきりしない。最初のリボン飾りは、いわゆる鹿鳴館時代、束髪が紹介され、狭い範囲ではあってもひとつのブームになった1885(明治18)年頃にはじまる。

その時期、洋風束髪についてのガイドブック的な小冊子が何種類も刊行されている。洋風束髪のうち、「まがれいと」と呼んでいる髪は、後頭部で束ねた髪の根を、小さなリボンで結んでいる。ガイドブックのイラストで見るかぎり、元結いで縛ったのとあまり変わらない大きさの、地味なもので、飾りの気分はほとんど感じられない。束髪のブームはみじかい期間だけで、1890年代(ほぼ明治20年代)に入ると、女学生も多くは桃割れや唐人髷で通学していた。

リボンの流行はようやく世紀が改まったころかららしく、次のような最初のデータが見出される。

鉋屑(かんなくず)の頭掛は値段の安いところから、目下中以下の娘たちの間に流行しつつあるが、最近はリボンの頭掛も、おなじ社会の小娘に人気がある。
(「安い頭飾り」朝日新聞 1901/3/1: 5)

小林一三はその翌々年1903(明治36)年5月17日の日記のなかで、リボンが流行していると言っている。

よいリボンは舶来品だったが、すでに1894(明治27)年に、東京谷中に岩橋謹次郎なる者がリボン製織所をつくり、それが13年後(明治40年)には他社も買収してリボン製織会社にまで成長しているから、記録には残りにくいところで、「中以下の娘や小娘」のあいだでは、鉋屑の髪飾りと違わないレベルの国産リボンが、かなりひろまっていたにちがいない。

1905、1906年(明治38、39年)以後、いわゆるひさし髪と海老茶袴の明治の女学生スタイルが定着し、それとともにこののち10年あまりのあいだは、リボン全盛期といってよかった。

リボンはもちろん髪飾りとして使われるのが普通だったが、半襟に縫いつけてたり、またつぎのような使いかたもあった。

山の手風と称え、本郷小石川牛込辺の女学生には、羽織の紐、時計の紐等にリボンを用いることありしが、其の後帯留肩掛等にも用うることとなり、目下は改良襦袢の袖口にまでリボン、若しくはレースの派手なるものを使うようになりたり。
(「山の手風リボン」日本新聞 1904/12/4: 5)

リボンはとりわけ女学生に好まれたのではあったが、この流行の時期にはその範囲はずいぶんひろがった。1909(明治42)年に、鉄道の駅の出札係にはじめて女性が採用されたとき、そのすがたは、被布仕立て、筒袖の着物に下は袴、「流石に文明の職業とて、頭は申し合わした様に廂髪(ひさしがみ)、リボンも多くは派手なのを避けて、総体に地味な扮装(こしらえ)」(→年表〈現況〉1909年9月 「駅の出札係の制服」朝日新聞 1909/9/16: 5)とある。

また女学校では、生徒ばかりではなしに、女の教師もリボンをつけ、「リボンの汚れたるにまでもかれこれ批評し合うもの(……)」(→年表〈現況〉1904年12月 「女教師の利害」日本新聞 1904/12/19: 5)などと言われている。

リボンは前述のように国内でも生産されていたが、すくなくとも明治期には、「リボンが盛大に流行しているが、国内には完全な工場がなく、輸入税五割の高価な舶来品に依存」(「リボンは高価な舶来品に依存」時事新聞 1907/1/19: 8)という状態だった。

またこのころのパリを眼で見てきた川上貞奴が、彼の地でのリボン、ヘッドバンドの流行を伝えているから(→年表〈現況〉1908年5月 「川上貞奴の巴黎流行談(上)」東京日日新聞 1908/5/24: 7)、日本のリボン流行も、多分に欧米のファッションの追随であるらしいことがわかる。

フランスはリボン織機の発明以降、高級な紋織リボンの生産においては欧米をリードしてきた。そればかりでなく、ちょうど江戸時代の縞や小紋の趣味に対比されるようなリボン趣味や、その広範囲な利用についても、それが男性の服飾にも及んでいたため、イギリス人などからは嘲笑されるほどだった。日本の若い女性のリボン好きは、せいぜい色と幅の変化、それとむすび様の工夫くらいだった。貞奴のように本場のリボンを見たひとは、そのちがいの大きさに眼を見張ったに相違ない。1912(明治45)年に大いに縞柄のリボンが輸入され、またおなじ年にイギリスから最新のリボン織機を12台輸入したと、当時の新聞は報じている(→年表〈現況〉1912年3月 「斬新なリボン」国民新聞 1912/3/11: 8)。

1920年代(大正末~昭和初め)に入ると、リボンには冬の時代が来た。最初に、それまで女学生たちが頭を覆うようにつけていた大きなリボンは、すがたを消した。20年代、30年代の大部分の時期は、リボンといえば、男女の帽子の飾りリボンくらいになっていた。このあとリボンが復活したのは1930年代末(昭和10年代半ば)、このときも火元は欧米での流行の後追いだったが、太平洋戦争を目前に控えた時期だっただけに、ごく短期間の fad (一時的流行)に終わった。明治の女学生のリバイバル、という見方をしたひともあり、「年輩の方々も昔の自分達の娘当時を思いだし、懐かしく思われる(……)」(→年表〈現況〉1940年1月 「街を歩けばリボン髪」都新聞 1940/1/22: 5)と、書かれている。

(大丸 弘)