| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 305 |
| タイトル | 鏡 |
| 解説 | 1893(明治26)年に出た『男女自宅職業独案内』』という本に、「硝子鏡を製する法」という章がある。硝子板と、おなじ大きさの錫箔一枚を用意し、錫箔に水銀を注ぎ、しばらくして再びこれに水銀を注ぎかけ、この親和物を平らに置いた硝子の上に敷きひろげる、ただしこの際最初に余った水銀と、生じたその他の酸化物をもすべて掃き去るを要す、かくてのち若干量のおもしを数日間載せておけば、「混和物が硝子に固着して充分なる鏡となるを得べし」と、本文はもうすこし詳しいが、だいたいこんなことだ。 はたしてこれで実用的な鏡ができたのだろうか。このころはまだ家庭で機を織り、味噌や保存食品をつくるのがめずらしくなかった時代で、石鹸や化粧料、かんたんな医薬品のたぐいまで家庭でつくろうとする傾向があり、そのための手引書も多かった。しかしこの本の著者の意図は一歩すすめて、職業人を育てようとしているらしい。明治10年代、20年代といえば起業の戦国時代のような時期で、西洋から入ってくる新奇な物品を模倣し、なんとか似たものを作って一旗揚げようと手探りしている人間で溢れていた。この時代の商工名鑑を見ると、「舶来物品及模造品商」と堂々と謳って宣伝しており、また博覧会まで開催されている(→年表〈現況〉1877年12月 「舶来品に模造せる博覧会場の雑貨」郵便報知新聞 1877/12/3: 1-2)。よくできた真似はそれも創意のうちだったようだ。 近代の銀引法による硝子鏡はヨーロッパでは18世紀はじめの発明だったが、製造工程は国、地域によっても工房によってもヴァラエティがあり、日本人にとっては、紋織物におけるように、ジャガード1台を学習すればそれがすべて、というのとはまったくちがっていた。素材の板ガラスの品質について、前に挙げた『男女自宅職業独案内』には、「鏡の主材は良質の厚板硝子である。しかし和製の板硝子は未だ先進国の製品に遠く及ばないので、是等材料の9割迄は之を輸入に仰がねばならぬ」とある。鏡はかなり後々まで、舶来品に支配されていた。[大阪朝日新聞]が刊行した1926(大正15)年の『商売うらおもて』でもこう言っている。 鏡の産地としては第一に英国を推す。その次は米国のピッツバーグ品、ベルジューム(ベルギー)の磨品(みがきひん)であるが、内地品としては旭ガラスの赤菱印、日本ガラス物等が先ず試験合格というところ。 鏡の製作は多分に職人的なため、閉鎖的な家内工業が中心で、その傾向は第二次大戦後までつづく。1969(昭和44)年の調査では鏡の出荷額で全国の59パーセントを占める大阪府の場合、輸出鏡協同組合の組合企業43社の従業員数は29人以下が74パーセント、資本金500万円未満、および個人経営の企業が56パーセントを占めており、小規模零細の多い業界であることを示している(大阪府商工経済研究所『小零細工業と構造改善』1972年4月)。 鏡の製造が小規模経営にとどまる理由のひとつは、製造品目が多様で、そのそれぞれのなかで互換性のすくない技術が重んじられるためもあろう。上にあげた大阪府の企業の輸出品目をみると、懐中鏡、手鏡、吊り鏡、卓上鏡、後写鏡(自転車用)、鏡材、そのほかとなっているが、たとえば卓上鏡ひとつをとってみても、鏡のサイズやかたち、枠、足も各種金属、陶磁器、木工などと組み合わさったデザインが工夫され、きわめて種類が多く、そのそれぞれが同じく零細な他企業との密接な連携のうえになりたっていた。個々の製品の生産量はさほど大きくないのがふつうで、販路もたいていは狭い地域にかぎられている。戦前の鏡台鏡のデザインひとつをとってみても、その推移を鳥瞰する、などということがむずかしい理由はここにある。 江戸時代の、銅を磨いた金属鏡に代わったガラス鏡は、1880年代(ほぼ明治10年代)にはかなり普及していたと思われる。もっともめだつのは理髪店の大型の鏡で、すべてが舶来品だったから安くはなかったろう。鏡の価格ははっきりしないが、板硝子自体の輸入価格が1890年代(ほぼ明治20年代)の初めで、厚さ4分の1インチ、3尺に2尺の大きさで8円90銭という記録が残っている。米一石の値段が7円の時代だ。 男性の髪が丁髷(ちょんまげ)から散髪に変わった時期、散髪屋の店の内部は開化のひとつのシンボルだったともいえ、その中心は椅子に座った客の、眼の前の大鏡だったかもしれない。それ以前の髪結床では、客は上がり框に腰掛けて手に毛受けの盥(たらい)などを持たされるので、前に鏡の置きようもなかった。 一方、床に正座した客の髪を結う女髪結の店では、大型の長四角の鏡をとりつけた鏡台を使ったと考えられる。ただし明治時代の女髪結は、店よりも客の家を回る外結いがふつうだったので、その場合は客の家の、古風な丸鏡を懸けた姫鏡台の前にでも座ってもらっただろう。江戸時代の女が使っていた鏡台の丸鏡は、二面の円形の手鏡が向かい合わせに重ねられ、鏡台に斜めに懸けられてあるものもあった。二面の鏡は合わせ鏡の必要からだ。この時代の女性は、後髪――髱(たぼ あるいは つと)のかたちをひどく気にした。 江戸時代にも姿見はあったが、尺5寸(約45センチ)の長さがふつうで、それ以上の大型のものは裕福な旗本屋敷や、豪商の奥の間ででもなければ見られなかった。金属鏡は高価であるだけでなく、曇りやすく、それを磨く費用もばかにならなかったのだ。 明治の半ば以後になると、一般家庭でも鉄製の丸鏡は廃れて長四角のガラス製鏡台鏡がふつうになってゆく。なによりも、丸鏡に比べて姿見としての有用性からだろう。明治の末頃のすこしぜいたくな嫁入り道具の広告を見ると、化粧用の鏡台鏡のほかに、より大型の姿見鏡台がセットになっている。 大型の鏡で全身をうつすことが家庭でもできるようになったのには、ひとつには扉に大型の鏡がはめこまれた、洋服箪笥の普及があったかもしれない。鏡の表を赤い友禅のきれで覆う色っぽい姫鏡台が、モダンな白塗りの化粧台の鏡に代わるのは、椅子、立ち机の住まいかたが普及しはじめる1910年代(ほぼ大正前半期)以降になる。ドレッサーという言いかたも、もう一部では使われはじめていた。 顔、もしくは胸から上をうつす家庭の鏡としては、ご主人の髭剃り用の洗面所の鏡も必要だ。木造の中流日本住宅にもひと間だけ、洋風の応接間や書斎が現れた時代、だいたい1910年代に入るころから、もっと生活臭のつよい部分にもすこしずつの変化が生じはじめる。そのひとつが便所や浴室に付属して、たいていは小さな鏡のある洗面部分ができたことだ。それによって大根を刻んでいるそばでうがいをしたり、用を足したあとの指先を、植えこみに面した手水鉢の水で浄める――といった習慣も消えた。 1933(昭和8)年にライオン歯磨本舗は洗面所の設計コンクールを催した。洗面所は浴室と便所と不可分の機能をもつものだから、かならずしも独立した部屋ではないが、顔や手を洗い、歯を磨いたりうがいをしたりし、そして化粧をする、という目的のために、14項の募集条件のなかに、「9.鏡の位置と種類形式」という項が含まれていた。その結果ほとんどの入選作には鏡つきの化粧台がデザインされている。 そのデザインから現代のわれわれが気づくのは、この時期にはまだ三面鏡が周知されていなかったことと、全身がうつるような姿見が備えられていないことだ。三面鏡についてはちょうどこの時代、フランスではポール・モーランの短編“La Glace à Trois Faces(三面鏡)”によった、ジャン・エプシュタインの同名のサイレント映画が制作されているが、わが国で三面鏡が流行しはじめるのはもうすこしおくれ、1930年代後半より以後(昭和10年代)のことになる。 鏡を考えるとき、公共の場所の鏡についてもとりあげる必要があるだろう。都会の大通りの店構えが、昔風の暖簾から明るいガラス戸に変わるころから、商品陳列に鏡を応用する工夫もぽつぽつはじまったようだ。しかしそれ以上に、磨きあげられたショーウインドウのガラス自体が、道往く人々には鏡の役割をしたにちがいない。 開化後まもないころから、一種の「外圧」によって大都会には公衆便所がつくられた。その手洗い部分といえば申し訳ばかりの水が出るくらいで、とても鏡のあるような施設ではなかった。鉄道の駅の便所はそれよりはいくぶんましだったろうが。 高級飲食店やホテルをべつにすれば、1930年代とそれ以後の商業施設のなかで、女性たちの化粧直しにも、安らぎの場としても役だったのは、デパートや映画館のモダンな婦人用お手洗いだったろう。とりわけデパートの婦人手洗所の壁面には、たいてい大きな壁面鏡が貼られ、化粧のみならず身繕いにも役だった。デパートの鏡は色を白く見せる自惚れ鏡ヨ、と囁かれながら。 大きな鏡のある空間として日本独特のものといえば、それは銭湯だ。共同浴場はわが国には温泉をふくめて古くからあるが、壁面を鏡で埋めるのは近代になってのアイディアで、外国では例がないだろう。1930(昭和5)年の婦人雑誌に、美容体操の講座中である医師が、「ズロースひとつの裸体姿を鏡に映してみますと、自分の身体の何処が悪いかがよく分かります」と言って、裸の鏡前体操を勧めている(【婦人画報】1930/8月)。しかし当時の家屋構造では、裸になっての体操がだれにも許されるというわけにはいかなかったろう。そんな日本人が、浴場ではなにげない顔をしながら、裸の全身を人の眼にも自分の眼にも曝しているのはおもしろい。 (大丸 弘) |