| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 306 |
| タイトル | 指輪 |
| 解説 | 開化後、欧米に見習ったアクセサリーのうちで、最初に日本人の装いにとり入れられたのは指輪だったかもしれない。指輪は服装とは無関係に利用できるために、受け入れやすかったということだ。すでに1870年代の末には、「時計と指輪で開化ぶり」(→年表〈現況〉1877年12月 「投書―何々ブリ」読売新聞 1877/12/13: 3)とか、「指切り髪切りゃ昔のことよ、今は指輪の取りかわせ」(→年表〈現況〉1878年6月 「指輪の流行」読売新聞 1878/6/18: 3)などと言われていた。 しかも1878(明治11)年の記事の方は、早くもエンゲージリングとして通用していたことを示している。それどころか、この2年前の[読売新聞]は、府下渋谷村の植木屋安五郎なるものが、自分の許しもなく娘と夫婦約束をした若者と悶着になっていることを報じた記事中で、若者は「指輪まで取り換えた仲ゆえ、ぜひともふたりの仲を認めてください」と言い、安五郎は「私の娘にかぎってそんなことはしない、指輪は取り換えたのではなく、娘の指輪を若者が盗んだのだと、親バカで言い張っている」という他愛のない話を報じている。「指輪まで取り換えた仲」という言い方が、東京府下とはいえ、さほど文明の風に染まっているとも思われない階層の人々にまで使われていた事実は注目してよい。 このように1870年代(ほぼ明治10年以前)の指輪は、装飾というより、記号性が優っていたらしい。流行子はつぎのように回顧している。 明治十年の頃までは青金若しくは銀、金鍍金に家の紋などを彫刻したるを、矢取女や麦湯の姐さんがはめ居たるにとどまり、(……)明治十年の第一回博覧会ありしより、粧飾界に大変革を起し、西洋風の崇拝となり、此の時より指輪も初めて流行を兆し来たり、西洋風の安物の模造となり、贋宝石入りの指輪盛んに行われて、明治二十年の頃まで続きしが、今日に至りては、金剛石入りにあらざれば、美術的彫刻を施せるもの、左らずば純金の無地指輪に限れる(……)。 またことばをつづけて、1898(明治31)年の現時点の傾向として、中以上の暮らしの男女で、金の指輪の1、2箇を嵌めていない者は稀で、男性の多くは純金の指輪、宝石入りは女性に多いと言っている。 同時代の大阪でも、同時代の大阪でも、「指輪に身分をひけらかす世とて、猫も杓子も純金と洒落込み、芸妓にして指輪を嵌めねば、中等の賃銭払いながら、下等汽車にでも乗らねばならぬかのように思う……」(「指輪の合使い」大阪毎日新聞 1898/2/17: 6)という有様と報じている。 男に石を使わない金の無地指輪が多いのは、ひとつには当時実務家に、印形指輪をもちいるひとが多かったためだろう。印形指輪はやや大型になることもあって、それだけで威圧的に感じられたろう。高利貸しの印形指輪など特にそうだったはずだ。もちろん男がみんな無地指輪というわけではない。紅葉の『金色夜叉』(1897~)の冒頭は、歌留多会の夜に富豪の富山唯継が、300円のダイヤの嵌った指輪をひけらかすシーンで有名だ。 ところが1900(明治33)年11月23日の[国民新聞]は、流行の美術装飾品として、「指輪 金無垢の幅広無地又は彫刻物などは、野卑なるものとして捨てられ、宝石入りならでは用いるものなし(……)」としている。流行の変転の早いのにはおどろかされるが、記者の観察の差、ということもあるかもしれない。 若い女性のなかには、せっかくきれいな指をもっているのに、友だちがはめている指輪を見て、なにかひとつぐらいははめないとさびしい、と感じるひとがあるらしい。小さな女の子が、夜店で売っているキラキラするものを指にはめて幸せになったりする。 それと似たこととも言えるが、1903(明治36)年12月25日の[読売新聞]にこんな記事があった。いま、文銭指輪というものが流行っている。「上は奥様御新造お嬢さまより、下は女房嬶左右衛門お三子守に至るまで(……)」はめていて、聞けば中気のおまじないだそうだ。江戸時代の銅銭はこのころはまだいくらも残っていたが、それをどうやって指にはめるのか。ただし、輪状の金属を指や腕にはめると、その金属から一種のパワーが出て、病気が治癒したり、邪気を払って幸福になる、という説は古来ずいぶん多く、指輪やブレスレットをはめるひとつの根拠にはなってきた。 明治時代の日本人は、金歯を光らせて自慢していたように、金に対して現代のわれわれよりも愛情が深かったらしい。金の指輪も1本だけでなく、2本、3本と嵌めていたのもこの時代だ。それが1900年代末(明治40年代初め)頃から、金は赤磨き、または艶消しに好みが変わりはじめ、やがて台の金属より石に、とくにダイヤモンドに嗜好が集中してゆく。 目下流行の指環は何と申しましても、宝石入りが全盛で御座います。殊に、十八金の細枠にダイヤ・真珠・ルビーなどを嵌め、極瀟洒な風趣を存して居るようなものが喜ばれて居ります。近来、白金(プラチナ)の枠にダイヤを入れたものが非常な勢いで流行り出して参りました。宝石の中でもこのダイヤが一番歓迎を受け、之に次ぐものは真珠であります。(【三越】1915/7月) 色のない、ある意味では目立たないダイヤモンドの嗜好は、近代人らしい、また都会人らしい好みともいえ、現代にいたるまで安定しつづけている。ただし周辺の小さな流行としては、1910年代半ば(ほぼ大正前半)から、引用した三越の宣伝のように、従来の金一点張りから白金――プラチナに人気が移りはじめ、またやや古風な感覚で、翡翠に人気のでた時期もあるなどなど、さまざまだ。 1930(昭和5)年頃からのひとつのテーマは、合成宝石の利用の仕方だろう。技術の向上から天然ものと区別のつかないダイヤモンドやエメラルドが、数パーセントの価格で手に入るようになると、天然ものは装飾目的ではなく、自己満足に奉仕するものに変わる。しかしもともと指輪は宝飾品のなかでも、そういったものだったのだが。 (大丸 弘) |