| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 317 |
| タイトル | 喫煙 |
| 解説 | わが国ではすでに1900(明治33)年3月に〈未成年者喫煙禁止法〉(法律第33号)が公布され、20歳未満の青少年の喫煙は禁じられている。しかしその一方で、成人の喫煙志向はきわめてつよかった。 人毎に烟草吸わぬはなく、大晦日の不景気を口にせぬ人はなし。(→年表〈現況〉1892年1月 「新年の流行」日本新聞 1892/1/3: 2) (……)近来は流行ともいうべきか煙草を喫まざるものは殆んど普通の人間を外れたるものの如く、漸く乳を離れたる子供も菓子よりは煙草という有様にて両親の厳禁の裡にも猶父の煙草をぬすみて密かに烟を薫らす今日(……)。 煙草は(……)酒と共に無くてはならないものの一つであります。米国に於きましては酒は有害と認めまして禁酒令を先年発布しました。我が国に於きましても禁酒運動を一部の人々がして居りますけれども煙草に対してはそう云う事はありません。 はっきりした統計はないが、戦前、喫煙者は男子の8、9割、女子の2割とみられていた。煙草に対する課税は、すでに1876(明治9)年に煙草印紙税のかたちではじまっているが、1898(明治31)年には葉煙草専売法が施行され、1904(明治37)年には製造販売、製品の輸入等、ことごとくが専売となっている。その後1985(昭和60)年の日本専売公社廃止にいたるまで、塩、樟脳等とあわせて、国民の大部分に浸みこんでいた喫煙という悪習慣を利用した専売事業は、国の財政に大きく貢献した。 明治・大正時代の新聞連載小説には家庭内のありさまを描いた挿絵が多く、そこでは長火鉢を前にして煙管(きせる)を手にしている女、煙草盆をかたわらに、長ぎせるを畳について嫁や娘に小言をいう老女、というのがお約束の情景のひとつになる。 こういった女の小道具の煙管はかなり長いのがふつうで、多くは30センチ以上のいわゆる長ぎせるだ。長ぎせるといえばすぐ連想されるのは、廓(くるわ)の娼婦の使っているきせるだろう。女たちは格子のなかからお客にことばをかけ、甘いことばで誘いながら、長いきせるの雁首(がんくび)を器用に男の袖や袂に絡みつけて、相手をそばに引きつけ身動きできなくしたらしい。長火鉢を前に、立膝して長煙管を使っている女などには、その素性についてのそんな疑いがよぎる。 煙管を使うのは刻み煙草だ。江戸時代には刻みしかなかったから、たばこ吸いはだれもが煙管をもち、だいじにしていた。紙巻き煙草普及の速度はどうだったのだろうか。作家の後藤宙花は、1903(明治36)年3月の【新小説】に寄せた「巻煙草嗜好の変遷」でひとつの見方を示しているが、ぜんたいを鳥瞰するのはむずかしいだろう。1890年代後半(明治30年前後)と設定されている『半七捕物帳』のなかで、老境の半七が貰った紙巻きをなんだかキナ臭そうに呑む、という描写がある。勤め人たちはもう煙管といっしょの煙草入れなど持っては出なかったので、大正・昭和戦前期には、刻み煙草も、それを入れた煙草入れも、ほとんど女の専用物のようになる。 もっとも男では半天着の職人たちや、いつまでもきものに帯姿を守った芸人さんなども、戦争の前後くらいまではよく後腰に煙草入れを挟んでいた。戦後のことになるが、《銀座カンカン娘》(1949)という新東宝映画のなかでは、落語の六代目志ん生が特別出演していて、腰の煙草入れから鉈豆(なたまめ)煙管をとりだす慣れた手つきをみせてくれた。 一見なにげない煙管のもち様、扱い様も、こまかい観察をすれば、ボディ・ランゲージのひとつのテーマになる。まだ煙管の最盛期だった1890年代、「ここに五つ六つ煙管の持ち振りを図に示し、その人物がわかるかわからぬかは読者を請う」とした興味ある分析もある。 煙管は煙草の葉をつめて燃やす雁首と、吸い口だけが金属で、それを竹の管である羅宇(らお)でつないでいるというのが基本で、変形はいろいろ。東京では上等の煙管といえばまず村田屋だった。羅宇をふくめて全体が銀製のものを銀の延べぎせるといって、被布を着てちょっと威厳のあるお婆さんなどが使う。 鉈豆(あるいは刀豆)煙管は、細い筒に入れている携帯用。煙管の筒と四角い煙草入れとはいっしょになっていて、筒の方を帯に挟むと落とすことはない。江戸時代は旅人も、野良仕事の人も、船頭さんも、また多くの侍も、たいていは右の後腰に煙草道具を挟んでいた。女性の煙草入れはもちろん、袋物に入れるか、帯の間に挟むかした。 煙管の筒の内部はヤニで詰まりやすい。こよりや真綿を細く撚って針金を使って掃除することもある。本格的な掃除には羅宇屋という行商がまわってくる。 戦前の紙巻き煙草でいちばん名前の売れたのは、朝日、敷島、そしてゴールデンバットだろう。1924(大正13)年の値段は、20本入りの敷島が15銭、朝日が12銭でどちらも口付、両切りのバットが10本入りで5銭、もちろん輸入葉を使ったとんでもない高価な銘柄もあったが、大衆はだいたいこの3銘柄だった。太平洋戦争がはじまったころに、それまでいちばん人気のあったバットが、敵性語をつかっているというので、「金鵄(きんし)」と名称変更し、あわせて「鵬翼(ほうよく)」、「光」といった新銘柄が発売され、ついでにかなりの値上げになった。「金鵄輝く15銭、栄えある光20銭、鵬翼高い30銭」という替え歌が愛国行進曲のふしで歌われた。値段が上がったのは戦費調達のためということで我慢したが、煙草葉の栽培を食料生産に切り替えたため、ひどい品不足が襲ってきて、煙草吸いはもっと音(ね)を上げた。行列の時代の先頭をきったのは、おそらく煙草屋の行列だったろう。 煙管は言ってみれば一種のパイプだ。戦前のパイプはわが国では、葉巻同様ひとつのスノッブで、海外生活の経験者など、ごく一部の人たちだけのものだった。ところが戦中戦後に煙草が不足してくると、唇にはくわえられないくらい短くなった煙草をパイプで吸ったり、紙巻きをほぐした粉煙草はまあいいとして、代用煙草と称する得体の知れない粉を、舶来のブライヤーで吸う人があったりした。 (大丸 弘) |