近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 304
タイトル 束髪の髪飾り
解説

1890年代(ほぼ明治20年代)の縦型束髪の時代、束髪は毛を束ねてヘアピンやリボンで固定する方法が主だったから、わが国の女性たちにとって、ピンの使用は新鮮に感じられたかもしれない。もっともこの時代、ピンと呼ばれていた飾り具の実質は、簪(かんざし)にほかならなかった。日本髪用の簪にくらべると、「いかにも質素のもののみなれば、おのずから上流向きには、物好きの珍品、さては好みの注文もあるならん(……)」と、【風俗画報】の記者は言っている(→年表〈現況〉1905年5月 「流行門―束髪の世界」【風俗画報】316号 1905/5/10: 29)。

この時代の束髪にはまた造花を飾るのが流行した。1880、1890年代(ほぼ明治10年代~20年代)には、おもに在留外国婦人によって各種の手芸が紹介されている。そのなかで造花は、こののち毛糸編物やレース編みほどには、家庭手芸としての発展はなかったが、明治時代には女学校に造花コースが設けられるほどの人気だった。髪に造花を飾るのは、やはり人気だったリボンと同様、若い人、女学生などの好みで、まがれいと(マーガレット)など、おさげ風の髪には似合っただろう。

束髪用の櫛はひさし髪とともにひろがった。ひさし髪はそれ自体は見栄えのないものなのと、油気のない髪が乱れやすいために、歯の長い西洋櫛を何枚かセットとして用いるのがふつうで、二枚櫛、三枚櫛などと言った。贅沢には相変わらず鼈甲が好まれ、東京京橋の大西白牡丹の広告などを見ると、

上等の二枚櫛として新たに当店で工夫致した品は、漆の様な黒鼈甲に十八金の線で種々の花模様を手際に透かし、真珠やオパールの宝玉を所々に入れました物が、御好評を請けて居ります(……)。
(「上等な二枚櫛」東京日日新聞 1912/3/19: 4)

などというものもある。だが、ひさし髪のいわば推進者である女学生向きには、手ごろなお値段のゴム製や、新しいセルロイド製のものもあり、もともと束髪は生活的な髪だから、この方が似つかわしかったはずだ。

本郷三丁目の老舗小間物店かねやすが、1911(明治44)年に[都新聞]に掲載した、束髪用品の宣伝文がある。かねやすは土地柄、山の手をおもな顧客としている。お世辞もあるだろうが、「皆様のお好みは概ね高等の向きでございます」と前置きしてから、

学校へお通いになるお嬢様を初め皆様共、重にお上げになりまするお髪(ぐし)は、大半束髪でございます。続いて又皆様は、同じ髪飾の品々をお採りになるにいたしましても、なるべく実用を主とした品をと、お選びになる傾きでございます。当店に置きましては、疾くにお客様の御嗜好を計りまして、目下流行の中心をなって居りまする、セルロイド本位の製品を数々ご披露いたします。
(都新聞 1911/7/8: 5)

とあって、披露しているおもな商品は、二枚櫛、髱櫛(たぼぐし)、髪針(へあぴん)、髱止(たぼどめ)だ。なお宣伝文のなかで、お上げになるお髪の大半は束髪、とあるのは、土地柄の外に季節が夏という条件を考えれば、かなり割引く必要があるだろう。

1910年代(ほぼ大正前半期)は束髪の転換期であり、七三分けや、梳き毛を大量に入れて高くふくらますなどのスタイルが流行となる。二枚櫛三枚櫛というように、櫛をめだった装飾につかうことはだんだんと廃れ、かねやすの宣伝にあるように、うしろ部分に髱櫛(たぼぐし)や、髱止を用い、あるいは日本髪の後挿の簪のように、鬢のうしろあたりに一本のピンを挿すのがふつうになる。1920年代から30年代初め(大正末~昭和初め)にかけては、髪飾りの最後といってもよい、束髪ピンのさかりの時期だった。

毛の乱れやすい束髪には、相変わらずたくさんのピンが使われた。それはたいてい針金を曲げただけの実用的な品だったが、そのなかにそれまでの櫛に代わるような、あしの長い装飾ピンが現れた。ある婦人雑誌にはつぎのような紹介がある。

御婦人方の束髪を飾るピンは、油気のないごくハイカラな女学生風の髪にも、また奥様方のふつうの束髪にも、今一般に角ピンが好まれるようでございます。(……)それらはたいてい鼈甲製で(……)又お若い方の大きいので並みのものには、セルロイド製のがございます。(……)また束髪に角ピンをお挿しになったならば、その相手に日本髪でいうならば、簪といったようなピンを挿しますが、あれも上等ですと金製です(……)。
(「流行の束髪ピン」【婦人界】1922/1月)

角形といっても、やや丸みを帯びたものなど多様であり、足が二本とはかぎらず、そうしたものはピン櫛などとよばれた。この角ピンの流行は欧米の流行を追ったもの、といわれるが、欧米ではそのあとスペインピンが流行する。

スペインピンは左右均等の扇形で、非常に大きいものだ。ビゼーのオペラ《カルメン》では、カルメンはじめ煙草工場の女たちがこの櫛を後頭部にさしている。カルメンの日本初演は1939年というだいぶ先のことでもあり、このやや大仰なピンが、日本で流行したという記録はない。

1930年代(昭和5年~)になって、洋髪やパーマネントの時代にはいると、アイロンや電気の熱で癖づけたスタイルを固定するのは、ネットを除けばローションとピンによるしかなかった。そのピンは名前こそスズラン留めと上等になっていたが、かんたんなバネ仕掛の実用品だった。洋髪ウエーブの時代に入ると、女性はもう、頭になにか飾りものをつけるという、「女の子っぽい趣味」からは、成長したのだろうか。戦争がたけなわになった1940(昭和15)年には、こんな記事が現れる。

結髪にはぜひ必要とされているピンが、最近は甚だしく不足していますし、(……)なるべくピンを使用しないで纏めておきたいものです。
(「ピンの不足を補う結髪」朝日新聞 1940/3/13: 5)
(大丸 弘)