| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 313 |
| タイトル | 肩掛/ショール |
| 解説 | 肩から上半身にかけてを覆う大型の衣服がショール。 首のまわりをふさいだり、飾ったりするものの種類は多く、日本語の襟巻、くび巻はじめ、ネッカチーフ、ストール、ネクタイなど、形やつかい方にそれぞれ特色があるが、ショールはその大きさがなによりの特色で、外国でも日本でも、外套に代わって防寒のために用いられるのがふつうだった。それならばなぜ外套を着ないのか、という点を考えると、その時代の衣文化の一側面をうかがい知ることができる場合もある。 現代わが国で若い女性の和装にショールが用いられる理由は、機能の点からいえば、ふだん洋服しか着ない人にとっては、着物のうちあわせの胸元が寒いためだろう。着物を着なれていた時代の日本の女性は、胸元の寒いことには今のひとより抵抗力があったらしい。だからぬき襟のきつい芸者のなかには、冬は首筋にひびの切れるひとがいたという。うちあわせの襟であるにもかかわらず、明治までの日本人が、男女とも首のあたりの寒いことを気にしなかったのは、慣れ、としかいいようがない。明治に入って最初にとびついた外国衣料のひとつは、各種のくび巻の類だった。すでに1873(明治6)年の新聞に、狐や兎の毛つき襟巻のはやっていることが報じられている(→年表〈現況〉1873年3月 「東京雑話」新聞雑誌 81号 1873/2月)。また若者が襟巻をするようになったため、風邪に対する抵抗力が落ちるのではないか、という心配をするひともあった。 わが国にはもともと、女性の外出のための、これという防寒衣料がなかった。したがって1890年代(ほぼ明治20年代)後半にうまれた洋風羅紗製コートが、東コートという名で大流行した、というより、女性の冬の服種として定着したのは当然だった。この東コートが生まれる前の期間をうめた防寒衣料が、1880年代(ほぼ明治10年代)から90年代にかけての、ショールであり、ケットだった。 1880年代のショールやケット(blanket=毛布)の流行は男女に共通だった。この時代の輸入ケットはたいてい裾に太い筋が入っているのが印象的で、また房つきの品が多く、わが国で生産されるようになってからも、デザインは変わっていないようだ。防寒用にケットをもちいる習慣は都会地ではまもなく廃れたので、地方からのお上りさんを馬鹿にするための、「赤ゲット」ということばが生まれた。 ショールはやがて女性だけの防寒衣料になり、素材はさまざまで、上等なものにはまるでフランス革命時代のような上質のカシミヤ製ショールもあり、西陣でも毛織物の風合いを真似た低価格の綿織ショールを売り出したりした。女学生などは手編みの毛糸のショールを好んでいる、という記事があるかと思うと、1890(明治23)年の【以良都女】には、毛糸製ショールは今日すでに地を払いました、とある。90年代とそれ以後は、新聞や雑誌の流行記事によれば、ショール人気とコート人気の、時をおいての交代や、ないしは綱引きのような様子がうかがえる。なかにはコートの上からショールを纏う、寒がりの山の手の奥様もいたようだ(→年表〈現況〉1904年1月 「投書―天保の老人に見せたいもんだ」読売新聞 1904/1/26: 6)。 この時期はまた、お高祖頭巾がよくもちいられていたので、お高祖(こそ)頭巾にショールというトップファッションを、口の悪い東京ッ子は、酸漿(ほおずき)のお化け、などとからかっていた。第二次大戦後に、若い女性で真っ赤なビニール製のレインコートを着ている人を、「トンガラシのお化け」と笑う老人があったが、50年前の、子ども時代の記憶と関係があるのだろうか。 明治の末、日露戦争(1904、1905)以後になると、ショールは防寒用ばかりでなく、夏の肩掛としてもちいられるようになった。もちろんそれは極細毛糸編や、シフォン、あるいはレース製のもので、目的は塵除けとか、きものの襟を髪の毛で汚さないため、と称していた。 1907(明治40)年9月の新聞記事に、「廂髪の束髪にレース編みの肩掛という時代は気候の変化とともに過去に属してしまった」と、女学生の風俗を言っている(→年表〈現況〉1907年9月 「流行瑣談―虞美人草風」朝日新聞 1907/9/18: 6)。これはもちろん季節による素材のちがいを言っているので、それだけショールの文化は豊かになったといえるだろう。[朝日新聞]はまた1912(明治45)年の記事中で、「形や品質にも種別が夥しくなり、また流行り廃りも激しくなる」と、そのヴァリエーションを、竹久夢二のカットを添えて紹介している。 1910年代(ほぼ大正期)に入って以後のショールは、素材の変化が流行の中心で、かたちや大きさに関しては、大震災直前の1921、1922(大正10、大正11)年頃に、大型ショールが流行したくらいだろうか。ただしこのときの大型ショールは、かつてのようにマント風に身体を覆うのではなく、「一重に肩にかけて、長くだらりと爪先まで垂らす」(「投書」読売新聞 1922/1/12: 3)という、この投書者の言っているように「不経済な」、ストール風の使い方だった。1923(大正12)年にパリから帰った画家の川島理一郎も、「肩掛を日本のように長く幅広のものを、マント代わりの様にかけている処は世界中どこにもない」と言い、肩掛はバンドまでの長さ、と規定する女学校もあらわれている。 昭和に入ってから(1927年~)のショールは、素材にも色柄にもますます多様さが加わった。ジョーゼットやレヨナント(人絹加工品)の愛好のほか、毛皮人気が急上昇している。洋髪の普及によって小さく、また単純化した頭に、ヴォリュームと誘目性をもつ毛皮がマッチしたという理由もあったかもしれない。 (大丸 弘) |