| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 309 |
| タイトル | はきものと住居・建物 |
| 解説 | ズボンを窮屈袋と呼び、帰宅すると洋服を着物に着替えてゆったりする、という習慣を持ち続けてきた日本人が、靴の窮屈さを嫌ったのは当然だ。第二次大戦後になって住居の洋風化が一気に進み、とりわけ鉄筋マンションでは、畳の部屋はあっても1室だけ、という時代になったが、西洋風に靴ばきのままが許される住居は、まだ皆無にちかいだろう。 住居内では靴を脱ぐ習慣は日本にかぎらず、木の床を張って、そのうえで生活してきた文化ではふつうのことだ。その床の上に、泥や犬の糞などを踏んだ履物のままで歩き回られてはかなわない、という潔癖さもある。加えて、家では靴を脱いでくつろぎたい、という心情も大きい。靴脱ぎスペースが必要なため、日本の住居プランでは玄関の扉を内側に開くようにできない。 履物を脱いで家の中に入るという習慣は、玄関という特殊なスペースと、下駄箱あるいは靴入れという収納具を必要とする。さらにこれが人の出入りの大きな公共施設や商店、興行場などであると下足の必要が生じる。 下足は公共施設や客商売では長いあいだ悩みの種だった。大震災(1923)以前の東京三越は、下足のために300坪のスペースと、150、160人の下足番が必要だった。この下足番がフルに働いても、一日3万人以上の客を迎えることはむずかしかった。百貨店や大きな料理店が外からの履物で入店できるようになったのは、全国的に大震災の前後からだ。下足をやめた三越は、一日10万人以上の入店が可能になった。しかしもっと早くから下足をやめていた店は、記録が残っていないだけで随分あるにちがいない。すでに1876(明治9)年に、日本橋4丁目の「ての字」という氷水店は、2階へも靴で上がれるようにした、と[東京絵入新聞](1876/6/15: 1)が報じている。 日本橋旅籠町の大丸呉服店は、「弊店陳列場は御はきもののまま御随意御縦覧の御便利に有之(……)」という広告を1901(明治34)年10月4日の[東京日日新聞]に出している。これは店内を土間に改築した新装開店の挨拶なので、当然1階の土間だけで、ここで言っている下足廃止とは違い、従来の勧工場と変わりない。 下足のひとつの変態として、下駄は下足に預けるが、靴は袋状の靴カバーをかぶせて上がらせるという方法も多かった。上草履は貸すが、はいてきた履物は自分で持って上がらせるというやり方もあった。東京では歌舞伎見物の客が、まだ幕が下りないうちにもう腰を浮かして出口へと急ぐのに、大阪の芝居では客が最後までゆっくりしている。歌舞伎座の客は、出口の下足の混雑を少しでも避けようとするのに対し、大阪では履物は自分で持っているため、落ちついて最後まで見ていられるのだ、と指摘した人がある。しかし狭い桟敷のなかに、泥のついた履物を持ちこむのがよいことかどうか、とも付け加えている。 学校や病院、公共施設などでも長いあいだ、家から履いてきた履物では上がらせないところが多かった。日本の住居ではかならず履物を脱いで上がるのだから、当然といえば当然のことで、大きなところでは半纏姿の下足番がいるし、そうでなければ上がり口に並んでいる草履かスリッパに履き替える。しかしなかには下駄ばきのみを禁じている場所もあった。これはコンクリートの床で下駄の音がうるさいから、という理由らしかった。靴なら許せるが、下駄ばきで上がりこむのは失礼だ、という感覚があったかどうか。1910年代(ほぼ大正前半期)以後になって、都会では女性のよそ行きの履物がほとんど草履に代わった時代、「下足禁」という札のでている病院の上がり框(かまち)で、躊躇している盛装の奥さんなどがいたものだ。なかでは医師や看護婦が靴ばきで歩きまわっている。目の前には紅い鼻緒の薄汚い草履が並んでいる――。 下足の嫌われた理由のひとつは、代わりの貸草履の汚さだった。公共施設、とりわけ図書館の貸草履などはその代表で、上野帝国図書館の麻裏の紅鼻緒には、思い出の深い人も多いだろう。 学校などでは昇降口に並んでいる下駄箱のまえで、履いてきた下駄や草履、あるいは靴を上ばきに履き替える。上ばきは都会の小学校では早い時期に、運動靴とよぶゴム裏のズック靴になった。上ばきに履き替えさせる理由として、教室や廊下の板敷きを傷つけるから、という説明もあったらしく、これに反発して、生徒の足と板の間とどっちが大事だという投書が、新聞に寄せられたことがある。しかしこの投書は読者からの総攻撃を受けた。上ばきに履き替えるのは板の間を守るためではない、外の泥や黴菌を校舎内にもち込まないためである、投書者の認識不足もはなはだしい、等々(読売新聞 1898/11/23;11/25;11/30: 4;12/4: 4)。 じっさい、この時代は大都会も地方も道路はわるかった。革靴を履いてくる子も、踵の前の窪みにすぐ泥が詰まってコチコチに固まり、ときどき竹の物差しでこそげ落とさなければならなかった。 しかしまた外の履物が床材を傷つけるおそれも、確かにあった。小学校の床などは、安物の比較的やわらかい木が多かったし、大震災後に病院などに流行しはじめた床材のリノリウム(linoleum)も、傷がつきやすく、一旦大きな傷がつくと、そこからまくれてきた。一方、革靴の裏には、長持ちさせるためにカネを打つ人が多かった。 1900年代(ほぼ明治30年代)に入って、大都会の郊外に建つようになった洋風の住宅のなかでは、フローリングの部分が多くなり、そういう住まいではスリッパを使うようになった。玄関の上がり框にきれいなスリッパの置いてあるのは、ハイカラで、高級な家庭の印象があった。旅館や和風の料亭ばかりでなく、洋風の構造をもった建築物のなかでも、学校が上ばきに履き替えることを要求するように、病院、アパート、オフィスなどでは、靴を脱がせ、スリッパに履き替えさせるところがあった。第二次大戦後にはこういうところは少なくなるが、それは都会では道路がよくなったこと、また、下駄ばきの人がほとんどいなくなったためもあるだろう。欧米ではかなりの長期滞在をしても、スリッパ(slipper)というものにお目にかかることはめずらしい。 スリッパをはく理由は、木の床にじかに足の裏をつけるのは、たとえ靴下をはいていても冷たいからだろう。和風住居では、原則的にはスリッパをぬぐのは畳の部屋だけになっている。厚い絨毯の敷いてあるフロアで、家族が靴下だけで寛いでいることもあって、客はスリッパを履いたままでよいかどうか迷うことがある。欧米の家庭では、靴で踏んでいる、つまり「土足で」歩き回る絨毯に、あぐらをかいて座ったり、横になったりすることは、ふつうのことだ。 土足、という行為には、日本人の独特の想いがあるらしい。1918(大正7)年という時代、栃木県の山村で、忠君愛国の靴事件というものがあった。発布された戊申詔書を、村民たちの前で奉読するために式壇に登った在郷軍人会の分会長は、靴をはいていた。それを見て小学校長が、それは不敬であると咎めた。これに対して分会長は、靴をはいていることは不敬にあたらない、むしろ靴を脱ぐ方が不敬である、不敬をあえてするのは天皇に対する不忠であると憤った。忙しい農繁期に、不敬なる分会長を放逐すべしと叫ぶ校長側と、不敬不忠なる校長を排斥すべしと叫ぶ分会長側と、村は真っ二つに割れて争った(→年表〈現況〉1918年6月 「投書―忠君愛国の靴」朝日新聞 1918/6/9: 3)。校長側の論理は、靴をはいたまま式壇に登ったのは、土足で神聖なものを犯したことになる、というこの時代のひとつの心情が納得できないかぎり、理解しにくいだろう。 (大丸 弘) |