近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 310
タイトル 下駄
解説

下駄は種類が多く、おなじ名前であっても、時代や地域によって別のものをさしたりすることがよくあるから、注意が必要。その理由は、台なら台の特色につけられた名前が、いつの間にかほかの部分や、組み合わせの特色と紛れてしまうため、と考えられる。

大きく分ければ、下駄の特色はつぎの要素できまる。

(1)台のかたち (2)刳(く)り歯か差歯か (3)歯の高さ (4)表 (5)台の塗 (6)鼻緒

(1)台のかたちは歯の部分のかたちも含んでいる。平面的には、男ものは角形、女ものはやや細長く、かつ丸みのあるものが基準。側面から見て、前後の歯二本を削りだしてあるのが両刳り、前方が斜めになっているのがノメリ。反対にうしろの歯がかかとまであって、靴の踵のようになっているのが後丸(あとまる)。踵が四角い後角というのはないようだ。よく出てくる堂島はノメリの下駄の代表。

(2)台の底を彫り窪めて、そこに薄い板の歯を差し込んだのが差歯。うしろだけを差歯にしたものもある。差歯は減れば歯だけを差し替えればよいのだから経済的。だから学生のはく朴歯(ほおば)の高下駄はみな差歯。朴の木は堅く、水に強く、しかも比較的軽いので下駄の差歯にむいている。

これに対して差歯でないのが駒下駄で、当然やや値段が高い。『当世書生気質』(1883)のなかに、「博多の帯を締めたり、駒下駄をはいて出かけたりなんかすれば、第一頑固党の眼にもとまるし」というくだりがある。

(3)下駄の分類としては、高下駄は足駄(あしだ)に入れる。だから高足駄という言い方もある。料理人など水場の職人のなかには、天狗のような高足駄をはいている者がいた。足駄の差歯の低いのが日和(ひより)下駄。江戸はもちろんだが、東京でもすこし都心を離れると、雨や霜のあとは、草履や低い下駄ではとても歩けなかったので、下駄に晴雨の区別が必要だった。ただし日和下駄という言い方は、もとは特定の形をさしたのではなく、道のいい日にはける下駄をみんなそう呼んだらしい。差歯ではないが、女性のはく小町型や、女の子の木履(ぽっくり/こっぽり)には、ずいぶん高いものがある。

(4)明治時代の下駄には表つきが多かった。表というのは、下駄の足をのせる表面に貼り付けるもの。代表的な表は竹の皮を編んだものと、畳表。表をつけない下駄は、ジカバキという。19世紀の後半を通じて、男ものの下駄で堂島というのは、両刳り、表つきの下駄の総称だった。裏店のお上さんの履くようなものを除けば、明治時代いちばん一般的に履かれた小町型というのは、ノメリの後丸で表つきの下駄。差歯でない、という点では、堂島も小町も駒下駄の一種。

また低い差歯の日和下駄に表を貼ったものを、吾妻(東)下駄とよんだ。吾妻下駄というのは幕末の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』では日和下駄のべつの言い方のように言っていて、ただ雪駄用の表をつけ鼻緒は天鵞絨(ビロード)を専らとする、などとも書いてあるが、1920(大正9)年の流行案内では、「四季用いられる婦人の東下駄も、これから冬にかけては、召物にも依るが塗臺がいいでしょう」と勧めている例があり、下駄の呼び名はかなり不統一のようだ。

表のうちもっとも珍重された南部表というのは、竹の皮を手編みしたもので足ざわりも快い。製品は全国で生産されたので、ほんらいの南部藩――岩手県との関係もはっきりしないくらいになった。

(5)塗下駄は近代の後半にはすっかり衰えてしまった。『衣服と流行』(「帽子、履物類」1895: 224)には、「臺は黒塗七分、木地三分の流行、また初冬より初夏までは塗地臺を好み、初夏より立秋までは木地を喜ぶが如し。而して塗臺を好む人は質素にして、木地を好くものは意気なり(……)」とある。下駄の台は桐を尊重したが、その柾目が値打ちだったから、柾目のわからない塗の方に、値段の安いものがある。しかし塗といってもただ黒漆を塗っているというだけではなく、凝った模様を蒔絵したものもあって、華やかな花嫁衣裳の一部にもなった。木地を好くものは粋、とあるが、塗下駄を素足ではくのが好まれた、というデータもある。

(6)鼻緒は下駄や草履では目立つものなのだが、小さいために写真や挿絵ではあまり問題にされない。1880年代(ほぼ明治10年代)の、女ものの繻珍、男ものの七子の流行、その後のレザー、印伝、羅紗、別珍、なども、下駄の専門家でもないかぎり、あまり関心をもたれていない。

ただ、鼻緒の太さはいくぶんか眼を惹くために、とりあげられることがある。世間の好景気のときには太い鼻緒が好まれ、不況時はその逆、という事例を、業界史の研究家が挙げている(今西卯蔵『はきもの変遷史』1950)。しかし細めの鼻緒の方が粋好みなのは当然。細い鼻緒が流行った大正中期の好みに対して、「鼻緒もわずか一厘か二厘太めにすると、其処に何ともいえない上品な落ち着きと、暖かみが出てくる。そして見た目ばかりでなく、太い鼻緒は履きよいこと、保ちのよいことはいうまでもなく、裾や足袋の切れが非常に違う。無論程度だが、単に太いから野暮の細いから粋のということは決してない」というような批判があった。

太さはまた、はく人、すなわち下駄の重さによる、というのも当然のことで、明治時代の書生下駄、第二次大戦後までの中学生高校生の朴歯の高下駄の例でもあきらか。下駄でいちばん消耗するのは歯だが、トラブルの起こりやすいのは鼻緒。鼻緒は切れやすく、鼻緒擦れができやすく、足袋や着物の裾を傷めたりもする。朴歯の高下駄をはいて長道をしようなどという学生は、麻のみじかい紐一本ぐらいをポケットに忍ばせておくのが、武士の嗜みだった。

下駄は土の上を歩くのに適した履物で、砂利道はまだしも、石畳では歩きにくい。たしか津本陽の短編に、示現流の遣い手が京都祇園の石畳道で、新撰組の数人に斬り殺される話がある。彼はたまたま高下駄を履いていたために、相手の打ち込みが早くてそれを脱ぐいとまがなく、不覚をとったのだ。コンクリートの道路では減りやすいくらいでそう問題はないが、デパートや映画館、公共建築物や学校の磨かれた堅いタイルの床では、土足のままが許されていても第一滑りやすいし、立てる音も気になる時代になっていった。女性のよそ行き着がふつうはまだきものだった1930年代(ほぼ昭和一桁)から戦争中にかけて、女性のおしゃれな履物の関心は、すでに下駄から草履に移っていた。

(大丸 弘)