| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 311 |
| タイトル | 草履 |
| 解説 | 下駄と草履(ぞうり)の厳密なちがいはない。常識的には、歯のあるものが下駄、ということかもしれない。草履には、足の裏が床や地面にぴったりついている履き心地があり、堅い歯によって、ある高さに支えられている感じの下駄とはちがう。高さの点では、重(かさね)草履のなかにはずいぶん高いもの(10センチ近くになる)もあったが、そういう例外を除けば、一般には草履は下駄よりかさが低く、安定がよい。 草履は名のとおり、ほんらいは藁製の履物をいうはず。だから草鞋(わらじ)は当然そのなかに入らなければならないが、ふつうは区別して、「きょうは山仕事だからぞうりでなく、わらじにしろ」などという。草鞋の特色は足に括りつけてはく点。だから藁製の台に、紐と、紐を通すための乳(ち)がついている。江戸時代には町住まいのひとでも、道中などというほどでないちょっとした遠道に、草鞋をよくはいていた。遠出の足拵えといえば、草鞋脚絆を着けることで、明治になってもかなり永いあいだこの習慣は残った。1900年代に入ってさえ、上は洋服で草鞋ばき、という山歩きのすがたが多い。だから町外れの茶店の軒先には、時代が大正昭和となっても、草鞋の吊してあることがあったし、その草鞋は近辺の農家の年寄りの、小遣いとりの夜なべしごとだった。 草鞋は長道中だけでなく、滑りやすいところ、履物のぬげやすい泥田、荒っぽいしごとにも適している。こういう場合だと平らな道を歩く時とはちがう紐のかけ方になる。さらに、構造もすこしちがい、べつの名を持つものもある。足半(あしなか)とよばれているのは、草鞋と草履の中間のようなタイプ。 渓流の釣師が草鞋をはくのは、濡れた石で滑らない用心だ。子どもがゴム靴などでついてくると、あり合わせの荒縄で靴を縛ってやるように。1877(明治10)年の西南戦争ではもちろんだし、1894、1895(明治27、明治28)年の日清戦争でさえ、革靴より草鞋の方が働きやすいという兵が多かった。 草履のなかではいちばん古く素朴な藁草履は、今日でも広くもちいられる。いちばん手軽で安価な履物だから、冷飯(ひやめし)草履とバカにしたりする。麻裏草履は、藁や藺草(いぐさ)で作った草履の裏に麻緒を縫いつけたもの。藁草履には藁のほかにボロ切れを綯(な)って織りこむことがある。使い古した衣服のボロだから、丈夫さはどちらとも言えないだろうが、当然水にはつよく、足の裏ざわりはやわらかい。 明治以後の草履の進歩と変化は、台にどんな素材をつかい、裏になにを貼りつけるか、という点にほぼつきる。日清戦争の終わったころに現れた千代田履(ちよだばき)は、台の踵にあたる部分に畳んだ革やバネなど弾力のある素材を入れたもので、空気草履ともいわれた。 日露戦争のはじまる前に、板裏草履が出た。これは歯のない下駄のようなもので、藁表や竹皮表に短冊形の朴のちいさな薄板を貼りつけてあり、板は4枚とか8枚に分けて屈曲のよいようになっている。しょせん安物だが、草履としては例外的にぬかるみでも平気なため、重宝がられた。 1910年代半ば(ほぼ大正の初年)に、裏にコルクを貼ったキルク草履が現れる。道路が次第によくなり、駅の階段を登り下りして、電車に乗って外出する女性がふえると、下駄より草履、そしてより軽い草履が求められる。おなじ理由で、コルクより軽くて、しかも安いフェルト底の草履が出た。 フェルトやコルクは軽いので、何枚も重ねて貼り、背を高く見せることができるのも人気の理由。また柔らかい材質なので側面を曲面に成形することもできた。 お草履で上等なのは、フエルトかクローム皮であります。フエルトは主として婦人向きで、上等なものは表が天鵞絨(ビロード)か、塩瀬の刺繍もので、共鼻緒になります。(……)フエルトは羅紗のように堅牢なものではないのです、ですから水溜まりを歩いたり、湿気たところを歩くと、どうしても早く痛みやすいわけで、この点はやや流行遅れになったキルクの方が数等経済であります。(「婦人向きのフエルト草履」【婦人画報】1918/6月) 狭義の実用品としては1920年代末(昭和初め)に、初めてゴム底の草履が出た。ゴム自体の品質の向上、凹凸や表との接合の工夫などで、大きな信頼を得てゆく。のちに、ぜんたいがゴムでできたゴム草履が現れ、ビーチウエアなど、特定の目的に愛用される。 フェルトやコルクの重ね草履を上等な裂地でくるんだのが裂地草履。芯のコルクは踵の方が厚く入っているので、ハイヒール風な履き心地になる。太平洋戦争前の銀座のペーブを和装の盛装で歩く奥様には、欠かせない履物だった。冬の裂地草履に対して、春から秋にかけては、パナマ表が新しい流行になっていた。 草履、とりわけフェルト草履は、女性のモダンで上品な履物として、一時期、それまでの下駄の役割を奪ったかに見えた。それに対して東京の著名な履物屋のあるじは、1930年代の終わり(昭和10年代初め)頃だがこんなことを言っている。 フエルトのとてつもない高いものとか、ラシャの重ねなんて、厚ぼったく野暮ったくて見られません。春はできるだけ薄手の草履――でなければ一層のこと、直履きの桐の日和下駄などつっかけた方が、どんなにおしゃれかしれませんよ。(今津清一「はきもの」【婦人画報】1937/3月) 時代はもどるが、江戸時代からひきつづいて庶民に愛用されていたは履物のひとつに、雪駄(せった)がある。竹の皮草履の裏に革を貼って耐久性をもたせたもの。雪駄の特色は踵に真鍮の尻鉄(しりかね)、あるいは裏金(うらかね)がつけてある点。革を何枚も重ねたり、南部表や、鼻緒に上等の布を使ったり、けっこう金のかかったものもあった。歩くと裏金がチャラチャラいう、ということでも特色のある履物だったが、ゴム底草履出現のためにすがたを消したといわれる。 (大丸 弘) |