| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 316 |
| タイトル | 近代後期の帽子 |
| 解説 | 1910年代(大正前半期)以後の男性の帽子は、中折の時代に入る。礼法書の服装の頁を開けば、どんなときにはシルクハット、または高帽でなければいけないかとのくわしい説明はあったが、大衆にとってはシルクハットは鳩の出てくる奇術師の帽子、山高帽は田舎の村長さんの帽子になっていた。 夏になると、これはまったくカンカン帽とパナマの世界だった。カンカン帽は麦藁製で叩けばそんな音のするほど堅い。色が薄いため一夏でけっこう汚れ、帽子洗い屋が繁昌した。もっとも値段も安かったので夏ごとに買い換えるひとも多かった。ブリム(つば)が横から見ると真ッ平らなのは一文字、という。 パナマは南米産の一種の棕櫚で編まれたもの。やわらかいので丸めたり畳んだりすることもできる。エクアドル原住民のかぶりものだったパナマ帽が、世界的に人気になったのは19世紀末のこと、すでに漱石の『吾輩は猫である』(1905)の中で、高価な帽子としてとりあげられている。カンカン帽は若者のかぶるもの、パナマは年輩の紳士のもの、というところ。南米産の本パナマの外に、南洋パナマ、マーシャルパナマ、台湾パナマなどがあって、素人ではなかなか見わけがつきにくかった。南米から繊維を輸入して日本で加工する国産本パナマというのもある。そのほかイタリア産のタスカン帽も人気があった。 帽子は靴以上に、日本ではよいものがなかなかできず、ようやく1930年代後半(昭和10年代前半)になって、舶来に匹敵する国産が作られるようになったというが、もうその時期は無帽時代にさしかかっていた。 中折帽は戦前期はホワイトカラーにとっては必需品だったし、ブルーカラーに属するひとでも、日曜日に家族と外出するときのためにひとつぐらいは持っていた。鳥打帽もひろく使われていたが、好き嫌いがあった。戦前の男性の帽子をかぶることへのこだわりは強く、隣のうちへ電話を借りに行くにも帽子をかぶって行く、というふうだった。中折帽にはあまり流行のないこと、色も灰色か濃い茶色くらいにかぎられ、ひとつかふたつあればなにも気にせずにそれをかぶって出られる気安さがあった。もちろん中折にもイタリア製のボルサリーノのような舶来高級品もあり、形や色、かぶりかたの流行も、新聞のファッション欄には出ているが、そんなことを気にする男は、一部の若者だけだったろう。 一方女性の帽子も、洋装の普及にともなって、関東大震災後あたりから都会の風景のひとつになりはじめる。当時、その発言が大きな影響力をもっていた女医の吉岡弥生は、女性の帽子は衛生上非常に悪いと言い、頭が蒸れるために毛根を冒し、また頭痛の原因にもなる、と指摘した。吉岡は軍人に禿頭が多いのはいつも帽子をかぶっているせいだと言い、また西洋婦人が帽子をかぶるのは、髪が縮れていて美しくないからかまわないが、日本女性が美しい髪を隠すのは考えものだ、とも言っている。この吉岡の意見、また露頭に賛成するべつの医師の、無帽は日光浴とおなじ効果があるから賛成、という意見(→年表〈現況〉1932年7月 「無帽主義の流行」国民新聞 1932/7/30: 4)も、紫外線を強く怖れるようになった今日では問題があるだろう。 衛生云々とはべつに、洋装に帽子は必須、という考えかたは根づよく、昭和戦前期の女性の、外出着としての洋装には、欧米そのままの流行の帽子が見られるようになった。吉岡の発言に対する、「帽子なしで洋装ができるとお思いですか」(「無帽命令」読売新聞 1922/9/4: 3)という直接の反論、それから3年後の「洋装の一般化とともに、それに付随してなくてはならぬものは帽子」(「秋から冬の婦人帽子の話」読売新聞 1925/10/18: 10)、10年後の、「お帽子をお忘れになる御婦人は淑女としての資格に欠ける」(国民新聞 1932/6/13: 5)、さらに3年後の、香港から帰朝したある女性の「洋装で特に注意したいのは、婦人服を着たら必ず帽子をかぶって頂きたいことです」という意見(朝日新聞 1935/6/13: 5)などなど、1920、30年代(大正後期~昭和戦前期)の良識は、男性同様に、都会の洋装女性の帽子を必須のものとしている。 女性の帽子について、べつの角度からの批判が生じたのは、戦時中に入ってからのことだ。しかしその前に、男性の帽子についても近い問題があった。それは帽子をかぶることが相手に対して敬意を示すことになるのか、あるいはその反対なのか、という疑問だ。 はなしはやや古いが、1899(明治32)年に、当時の石黒軍医総監が名古屋で講演中、たまたま話が西南戦争のとき、天皇が野戦病院を慰問するくだりにさしかかった。そのとき軍医総監は臨席していた憲兵警官等が着帽のままであるのを咎め、「帽をお脱ぎなされ」と大声で命じ、憲兵らが直ちにこれに応じなかったのを憤って演壇を降りた、という事件があった。 帽子は装飾や衛生上の理由でかぶるだけではなく、もっとも目立つところにあるために記号性もつよい。もうひとつ厄介なのは、頭になにかをかぶる、あるいは頭部を覆う、という行為は、気候や住居の構造とも深くかかわっている。開化後に日本人が受けいれた男女の帽子は、もともとヨーロッパ型の風土と、住居様式のなかで展開してきたものだった。 帽子をかぶっている人は男女にかぎらず家のなかでは躊躇がある。男性がひとの家を訪問したとき、日本座敷であろうと洋風のフローリングであろうと、帽子をかぶったままのひとはいない。それでは区役所や病院ではどうなのか。それに対しては、屋根のあるところでは帽子をぬぐこと、あるいは靴をぬぐときは帽子もぬぐこと、という原則のようなものがあったようだ。これとて問題の余地はあるが、男性の帽子はかたちも用途も単純だからだいたいはこれで通せる。しかし女性があたまに乗せているもの、あるいは髪を覆っているものはそれほど単純ではない。 洋装の女性に帽子を取れという問題は、すでに1920(大正9)年に、貴族院の傍聴者について起こっている。守衛が、帽子をとらなければ入場を許さないと頑張ったのに対し、この女性は日本髪の女性に櫛簪を取れといいますかと抗議し、結局、警務課長の判断で認められた、という事件。しかしこの問題は戦時期に再燃することになる。 日中戦争下の1939(昭和14)年1月、[朝日新聞]は〈国民新儀礼〉のキャンペーンをくりひろげた。そのなかに婦人の帽子は、然るべき型であれば神社の社前でも脱がない、という一項がある(→年表〈現況〉1939年1月 「婦人の帽子は装飾―脱ぐのは却て失礼になる」朝日新聞 1939/1/1: 11)。 一方でこの前年には、文部省学務部長が室内での婦人脱帽を決議する、ということがあった。この時期欧米では、非常に大きなブリムをもつ女性のハットが流行していて、それを真似た小柄な日本女性に対し、帽子が歩いているようだなどという悪口もあった。たしかに混んだ映画館などでは、非常識な女性のために迷惑するひともあったから、文部省のこんなおせっかいに賛成する人は少なくなかったろう。 とはいえ女性の帽子のすべてがそんな非常識なものとはいえないし、その前に帽子とはどんなものをさすか、という議論が要りそうだ。画家でエッセイストの森口多里は、バスの車掌さんの制帽や、女性ではないが神主さんの烏帽子を例に引き、あたまにものをかぶる、あるいは覆う意味の多様性を指摘している(→年表〈現況〉1938年5月 「婦人の脱帽に疑問あり」朝日新聞 1938/5/21: 6;→年表〈現況〉1941年6月 「婦人の帽子 とるか、とらぬか」朝日新聞 1941/6/5: 3)。 ひとに挨拶するときの男性はふつう帽子をとるが、軍人は挙手の礼で帽子はとらない。戦時中男性がひろく着用していた国民服は準軍服なのだから、やはり帽子はぬがず挙手の礼をすべきだ、という主張があった。 国民服を着ながら一々帽子を取って挨拶しているのをよく見かけるが、制服であり制帽である国民服の場合には挙手の礼以外にはないと思う。(……)なお、国民服を着用しながら中折れ帽をかぶることは断然やめたいものである。(大丸 弘) |