近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 301
タイトル 明治時代の宝飾品
解説

宝石や貴金属で身を飾ることを、江戸時代の人は知らなかったとさえいえよう。装飾品のほとんどは女性の髪飾りであり、それとて金銀や宝石類はなく、櫛、笄(こうがい)や、簪(かんざし)に用いられたのは鼈甲、珊瑚だけで、それ以外の材料はまれだった。

開化と同時に西洋の宝石類が入ってきて、富裕階級の人々の装いを飾るようになったが、そういう行為自体に、ものめずらしさがあったにちがいない。最初に人々に受けいれられたのは指輪で、西南戦争のころには、すでに結婚指輪さえ交換されていたのには感心させられる(→年表〈現況〉1878年6月 「指輪の流行」読売新聞 1878/6/18: 3)。

しかし衣服に添う飾り方をするコスチューム・ジュエリーのほうは、かなり歩みがおそかった。和服と洋服とではその飾り方がまったくちがうので、外国の装身具はまず洋装の場合に、西洋女性のお手本に忠実に従って用いられたはずだ。1880年代の鹿鳴館等での夜会は、その最初の良い機会だったろう。

明治10年代(ほぼ1880年代)には丸嘉、天賞堂、すこし遅れて服部時計店が、日本橋から尾張町にかけての銀座に開業する。時計商が宝飾も扱うのは今とおなじだ。1894(明治27)年には、ニューヨークのティファニー社パリ支店長スポールディングが、天皇への献上品を携えて来日、農商務省を訪れたほか、東京府下の実業家たちを宿泊先の帝国ホテルに招待、日本での販売拡張について懇談している。

日本女性が最初に和装用に宝石貴金属類を利用したのは、おそらく帯留だったと考えられる。帯留に金具が用いられるようになったのは、不用になった刀の目貫の転用にはじまる、ということはよく知られている。帯留は目立つものなので流行も激しいが、たとえば1906(明治39)年の玉宝堂の製品では、純金、プラチナの金具、その金具は、宝石、真珠を用いて、露芝、竜田川の葡萄、夫婦の雁などが彫られている、という具合。

1890(明治23)年5月10日発行の、若い女性向けの雑誌【以良都女】には、新流行の和服の胸飾りとして、ネックレスが紹介されている。

もとより日本服は西洋婦人礼服のように大きく肌をあらわす風でもなく、従って胸飾りを掛けても更にそれが残らずは現れませんが、さてそれでその前の処は一部分ほのかにあらわれます。
(「新流行和服の胸飾」【以良都女】1890/5月)

と、ことに重ね着する冬などにはあまり見栄えはないが、その代わり、後ろの部分は普通の紐にしておいてもわからないのだから、安くつく、などとみみっちいことを言っている。結局、この時代和装の場合には、ネックレス、ブレスレットはほとんど用いられなかったようだ。

それに対しておなじ1890年代(ほぼ明治20年代)、合わせた襦袢の襟を固定する、つまり補装小物のひとつでもある襟留めのピン――半襟留め――は、一時的ではあったが、かなり広く用いられた。とりわけ襟をぴたりと合わせて着るくせの、女学生によろこばれた。この種の、宝飾品の範疇には入らないか、どっちともいえる実用品も多いはず。それに対して1907(明治40)年には、襟留めのブローチが流行している、というレポートがある(近藤焦雨【文芸倶楽部】1907/12月)。ハイカラ好みの流行で、最初はもっぱら舶来のブローチを用いていた、というから、半襟留めのピンよりはずっと大きい、洋服の襟や胸につけるようなものだったろう。残念ながら、同時代の写真などからは証拠が得られない。 1900年(明治33年)頃から目立つようになり、大正に入ってまでも続いたものに金銀の時計鎖がある。この時代、持って歩くのは男女ともすべて懐中時計だった。(→年表〈諸物価・賃金〉1906年11月 「貴婦人用時計鎖和服用」都新聞 1906/11/29: 3)。男性は上着の隠しに入れるが、女性はたいてい帯に挟み、若い人には、その長い鎖を首に掛けているひとが多かった。いまの人が古い写真を見て、よくネックレスとまちがうのがこれだ。女性が懐中時計を持つのは飾りの気持ちのほうが強かったらしく、商品リストでは装身具や貴金属中に分類されている。

落語の「つるつる」には、天保銭の穴に紐をつけて、時計と紛らわしく下げている幇間(ほうかん)の話がある。時間を尋ねられると、「いま8厘」と答えるのだという。天保期に鋳造された銅銭は明治初めまで8厘で通用していた。首掛鎖には金、銀、プラチナもあり、鎖のデザインもさまざまだった。

婦人は細くて長い金鎖を、襟に回して帯に挟みました。チョイと見るといかにもピカピカして立派のようですけれども、何となく品の悪いもので、極めて幼稚な趣味でした。然るに近来はとんとそんな風が流行しません。
(村井弦齋「衣服問題」【婦人世界】1915/4月)

複雑な色柄をもつ和服は、そこにコスチューム・ジュエリーとしての宝飾品を添えるのはむずかしく、無用ともいえるだろう。しかし試みがないではなかった。1908(明治41)年頃の大新聞に、「宝石自由かざり」という実用新案の広告がしばらくつづいている。これは着物のどこへでも留めることのできる一種のブローチで、渦巻き型の針金をつかった固定の方法が、実用新案なのだった。しかしこのアイディアは結局、あまり成功したとはいえなかったらしい。

またおなじ1908(明治41)年の【風俗画報】は、「婦人服の模様に宝石を加えることがボツボツ流行しかけてきた」と報じている(「宝石の応用」【風俗画報】1908/7月)。しかし筆者は同時に「もともと日本服の色彩は白襟かなにかの外は、中性色または暗色が多いので、用いる宝石の種類色沢によっては、極めて引立ちが悪い」とも指摘している。

日本女性の宝飾品への嗜好は、日露戦争以後になってようやく本格的になったといえる。欧州大戦のもたらした好景気が、それを支えた。1918(大正7)年、わが国に奢侈税が導入されたのもそういう背景があったためだ。奢侈税の導入を伝えた新聞はつぎのように結んでいる。

現代の奢侈装身具は全く宝石時代とも言うべく、其の流行は限りなく広がってゆく。
(→年表〈現況〉1918年9月 「流行る奢侈品中では宝石が第一番」時事新報 1918/9/18: 6)
(大丸 弘)