近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 314
タイトル 前掛/白衣
解説

ここで前掛、白衣といっているのは、衣服やからだの汚れるのを防ぐために、外側にもう一枚覆うものをさしている。前掛、前垂、エプロンというのはふつう前面を覆うだけなのに対して、白衣(はくい)、割烹着などはからだの大部分を覆うような、もっと大きなもの。また、実験や検査、手術、各種研究用の白衣のなかには、衣服の汚れとともにからだを危険から守るという目的のものもある。そういうものは防護服のなかに入り、構造も複雑だし、材質も金属を含めたもっと仰々しいものになる。

したがって白衣系の上っ張りは、色が白であってもなくても、その必要さからいって早い時期から存在していたことはまちがいない。割烹着については、【婦人之友】1913(大正2)年9月号の応募当選作品から、と一般にいわれている。ただしそれは袖口のゴムなど細部の工夫であったろう。それ以前から「婦人之友式割烹着」にちかい各種の上っ張りが知られていたし、看護人や医師、医学生などのあいだでは、明治の中頃にはすでにあたり前のものであったらしいことには、新聞小説挿絵などにも例証がある。たとえば1903(明治36)年、[報知新聞]に連載の村井弦斎作『食道楽』中の上等料理の挿絵では、台所でスープをつくっている西洋人の奥さんが、婦人之友式割烹着とよく似た上っ張りを着ている。実際、弦斎はこの割烹服を、料理服という名で既製品として宣伝販売していた。

1910年代後半から20年代にかけて(大正~昭和初め)は、第一次大戦後の好景気にもよるのだろうが、日常生活の質の向上がさかんに論じられ、またその多くがたしかに実現した明るい時期だった。あたまはハイカラな七三の束髪で、襟元をレースで縁取りした真っ白な割烹着を着て台所に立つ奥様のイメージは、いかにもこの時代らしい。昭和のはじめにかけては婦人雑誌の広告にも、映画女優をモデルにしたそんな写真がさかんに使われている。

割烹着との関連として震災の前の年に、すでに女性運動家として有名だった若き日の市川房枝は、アメリカ視察旅行のなかで家庭婦人のハウスドレス、エプロンドレスに着目して、これを日本女性の家庭着に推奨している(→年表〈現況〉1922年5月 市川房枝 「先づ各自の家庭で主婦が洋服を着初めたらどうでしょう」 読売新聞1922/5/26: 4)。【婦人之友】の読者の奥様の多くは、割烹着の下には、家でもたぶん銘仙などの絹ものを着てすごしていたことだろう。そんな女性たちにむかって市川は、割烹着などよりももっと先を指し示していたのだ。

1930年代(昭和5年~)になると、割烹着は仕事着や外出着の一種に昇格していた。女中さんといえば、改まった外出以外は一日中たいていは割烹着すがただったが、奥さんの近所の市場の買い物も割烹着が多かった。一方、下町の八百屋さんやパン屋さんのおばさんはたいてい割烹着すがたで店に出ていたし、美容院と名前が変わっていてもいなくても、土地によっては髪結さん、つまり美容師の仕事着も割烹着だった。

東京・横浜あたりの下町の人はぞんざいな言いかたでは「カッポ着」とよんでいて、ただしカッポ着で市内電車に乗るのはいくぶん気がひける、というひともあり、改札を通って電車には乗りにくいように感じる人が多かったようだ。 ただしそれも戦時期への時代の傾斜と、割烹着自体の普及によって変化していったろう。

1935(昭和10)年頃、横浜のあるキリスト教会の日曜礼拝に、割烹着すがたの主婦が出席した。老主任牧師は、信仰生活が日常化したあらわれ、とよろこんだが、若い副牧師は、なんの必要があって、仕事着を着たまま礼拝しなければならないのかと、いきどおったそうだ。割烹着がその当時、かなり多面性をもっていたことがわかる。

婦人団体にもおなじような迷いがあったらしい。もともと婦人の集りは衣裳くらべのようになりやすい。そのためむしろ学生のように制服をもとうとした団体もあったが、物資不足の時代にかかっていたこともあって、これは成功しなかった。婦人団体の会員が、贅沢品回収や慰問袋造りなどの作業に従事するときは、割烹着ほんらいの目的に添うものだから、着る人にも見る人にも自然な姿と捉えられた。しかし都大路の示威行進に割烹着というと、見る人にはいくぶんか滑稽感があったそうだ。この滑稽感は戦後の主婦連のおしゃもじ行進に通じる。

ときとしてそんな複雑な性格を担わされたとはいえ、割烹着自体が装飾化することは、戦前にかぎってはほとんどなかったようだ。これは女性の服飾としてはむしろめずらしい例になる。たぶんそれは悪い時代のせいだったろう。

それに対して前掛、エプロンは、もっと花やかなプロセスを歩んでいる。1898(明治31)年の流行誌【都の花】は、「是れも実用より修飾に転じて、中流以下にて近来は外出の時も晴れに前掛けを用うる有様となりしこそ可笑しけれ(……)」と前置きして、明治初年ごろの、「夏は透綾(すきや)、冬は八丈、(……)芸者などが修飾にする前掛には風通織か御召織など一枚三円五円の物を用うる事となれり(……)」などからはじまり、1頁に亘って詳しく紹介している。もっとも年ごろの女性が前掛をかけるのは、もとはといえば醜業婦が、妊娠しているのを隠すためだったのだ、などと意地のわるいことをいうひともあった(→年表〈現況〉1900年5月 「流行と実用―前だれの締め方」国民新聞 1900/5/11: 4)。

前掛の見栄はどちらかというと東京人だったらしく、前掛に御召縮緬を使うなどは大阪人の眼から見ると東京の奇習、ともいうが、しかしエプロンのおしゃれが世界的な民俗であることは今日ならよく知られている。

とくに都会でのことだが、子どもが前掛をさせられていたことは、明治生まれのひとの記憶にいつまでも残っていた。小学校に通うのにも前掛をしていた。東京でも土地によったらしく、おもに下町の風習だったようだ。

より実用的な、割烹着にちかい目的の前垂は男性にもひろくつかわれていた。重いものを担ぐ米屋や炭屋の使用人、仲仕の前垂は、厚司など丈夫な織物製で、ものを担ぐときはそれをまず肩に懸けて、その上に炭俵や米俵を載せる。

重いものとはあまり縁のない呉服屋の使用人などが前垂をするのは、畳の上での立ち座り、とくに膝をついて座るために、着物の裾が痛むのを防ぐのが目的だ。料理屋の女中の赤前垂もおなじこと。1892(明治25)年11月20日の[都新聞]に「前垂の思想」なる論説が掲載された(→年表〈現況〉1892年11月 「前垂の思想」都新聞 1892/11/20: 1)。小僧や手代の盲縞(めくらじま)の筒袖に前垂すがたこそ、節倹、愛嬌、従順という、徒弟制度の美風の象徴であり、その伝統を今後も守りつづけるように、という勧奨だったが、小僧や手代という身分自体への不満が目立ってきた時代だったのだ。もっとも、夏目漱石が自宅で学生時代の中勘助と会ったとき、前垂をしていたそうだから、男の前垂は商人にはかぎらなかったらしい。

エプロンというハイカラな言いかたがいちばんふさわしかったのが、1910年代、20年代(大正~昭和初め)のカフェの女給たちだったろう。彼女たちのエプロンは胸までを覆っているのがふつうで、幅のひろい紐を、背中でリボン風に大きく結んでいるのが印象的だ。

(大丸 弘)